川口談義第3回「伝説の鋳物師」
日時:2004年4月3日午後2時より
場所:鈴木鋳工所 川口市元郷1-9-4
[話し手]
 鈴木文吾さん(鋳物師 大正10年生まれ)
[解説話者]

土田裕さん(写真家 大正10年生まれ)
司会:山岡佐紀子
写真:さいとうかこみ
少年時代〜弟子入り
山岡:水戸でお生まれになったそうですが、何歳の時に川口へいらっしゃったのですか。
鈴木文吾さん(以下敬称略):こっちに来たのは昭和元年。
山岡:すると5才くらいの時ですか?
鈴木:そうだね。大正10年生まれだからね。それで昭和8年に小学校卒業なの。だよな?
土田裕さん(以下敬称略):そうだよ。
山岡:おとうさまは水戸でも、鋳物の仕事をされていたのですか?
鈴木:そう、でも、うちの親爺たちの頃は水戸ってのは仕事があんまりなかったんだよね。水戸ってのはおかかえ鋳物師だから、御三家のね。震災になった後ね、東京では川口の鋳物屋が忙しいっていうから、それでみんなでね、行ってみようかっていうんで、田中ひろしさんと、そのおとうさんなんかと4人で来たんだよ。
山岡:田中ひろしさん?
鈴木:鋳物組合の理事長だった人。
土田:今のダイエーのすぐ右側の六間道路のこっち側の今大きなマンション立ってる、そこだったの。
山岡:その方たちもみな水戸からいらしたんですか。
鈴木:そう、みんな親父と兄弟弟子で、それで川口へいっしょに行こうってことになったの。
山岡:最初はやはり「買湯(かいゆ)」から始められたんですか?
鈴木:最初は、「マルニさん」のところで工場を借りて、やっていたの。そしたらね、吉川鍋太郎さんてのが、このへんでは一番古い鋳物屋なんだけど、その吉川鍋太郎さんがね、おめえんの所は子どもが多いから、なんとか困らにようにしてるからおれんち来ないかって。うちは6人子どもがいたんだよ。それでね、本町のところの辻井工場ってあったんだけど、その長屋に住んで、吉川さんの所に行くようになったの。
山岡:そのころは、どんどん、よそから職人さんが川口に引っ越して来て、増えてる時期なんですね。
鈴木:でね、職人は最初は見習いだったんだよね。
土田:最初はみんな見習いで、一生懸命働いて、それでもって「買湯(かいゆ」をして、よそから仕事をとってきて、そのうちの場所を借りて、そこでもって仕事をするの。その親方が「フキ」を吹いた時に「湯」が出るでしょ、その「湯」をもらって、それをそん中に入れて、できあがった品物を目方に測って、50貫あるから一貫目いくらかってことなんです。それを「買湯(かいゆ)」というの。「湯」を買う。「湯」ってのは、鉄の溶けたののこと。
山岡:注文を受けるのは、個人個人なんですか。
鈴木:鉄瓶でもね、鍋でもね、あの人のは品物がいいから、いくらいくらで買おうじゃないかと。目方が重かったり、「ちゃんちき」するようじゃね、厚みが厚かったり薄かったりするようじゃね、半分くらいに下げられちゃうんだよね。いいものを作っていくようじゃなければ、やっぱし金にもならないってことなんだよね。
土田:文吾さんが越して来た時に、わたしとこれ(文吾さん)は同い年で、文吾さんと一緒にそこの第一小学校、昔の川口町尋常高等小学校に行ってたの。だいたい川口の人口はその当時3万ちょっとしかいない。土手下って言って、川口の鋳物屋の主な工場は、善光寺の向こう側にみんなあったの。そこでもって、みんな一生懸命働いて、お金は儲かると、ここいら(元郷)、みんな田んぼだったんだけど、300坪なら300坪買って、そのうち150坪の泥を半分にあげて、田んぼを埋めて、150坪の池ができるでしょ。そこは三太郎池だとか、誰々池だとか言って、子どもはそこに行っては夏になると泳いだんだよ。
山岡:そこの主の名前がつくんですね。
鈴木:その水を、工場では砂を練ったり。水道がないからね。その池がないと鋳物屋は商売にならないんだよ。「湯」を溶かした時もバケツで水を運んで消したりなんかしたから。脇に池がなかったら商売になんないんです。
土田:昔は「吹き井戸」って言って、お金のある鋳物屋さんは、こんな大きい(手を高く上げる)高さから、水がわんわんと湧いてくるのを持ってたの。そういうふうな事が出来ない人はしょうがないから池を作るの。川口はどこでも掘ればじくじくじくじく水が上がってきたんです。
鈴木:それで、大正に、川口駅のそばにビール会社ができたわけなんだけど、そうしたらね、だんだんだんだん井戸水が出なくなっちゃたの。
山岡:ビールにしてみんなで飲んじゃったんですね。
皆:(笑)
土田:わたしたちの小学校には「吹き井戸」が2つあったの。向こうとこっちに。当時、昭和の恐慌って言って、ひどい不景気だったの。それで、靴も買えないから裸足でもって行って、じゃぶじゃぶじゃぶって、洗って教室へ行ったような人たちもいたんですね。
山岡:文吾さんは小学生のころから、お手伝いをされていたと聞きましたが。
鈴木:私はね、小学校2年ごろから、親爺が朝4時頃行っちゃうでしょ、そうすると朝飯とお昼の弁当を必ず運ばされたの。本町から芝川さん(吉川鍋太郎さんの工場のあったところ)までね。‥‥それでね、結局ね、昭和5年に、不況でね、争議がおきたんですよ。
山岡:労働争議ですか。
鈴木:各工場でね、スト起きてね、米積んだりなんかしたんだけどね、やっぱりね、これじゃしょうがないってね、芝川さんてつまり、鍋太郎さんがね‥‥「なかやす」ってあったでしょう?
土田:料理屋だね。
鈴木:あそこの女中頭がね、あんたが商売やるんだったら、あたし金持ってるから、あんたやったらどうって。あの時で700円持ってたんだって。
土田:そうかよ‥‥
鈴木:それでよ、工場を1200円で1500坪‥‥それは買ったんでなくて、借りてたわけだから。昔のよ、昔の地代なんて安いもんだからね、だから今だにやってるよ。その122号線のところで。
土田:その芝川さんてのが、わたしと文チャンの友だちで、吉川としおさんて言って、まだそこの中央通りに生きているんです。こないだも行って話してきたけんどね。3番目のせがれ。五5番めだっけ。
鈴木:1番目が、まっちゃん、......だから6番目だ。
土田:そうか、なにしろ、いっぱいいたんだよ。
鈴木:でも、あっちは8人だろ、うちは10人だから二人多いんだよ。
皆:はっはっはっ。
山岡:どこの工場でも、小さい時から手伝わされるもんなんですか。
土田:ここんちは特別だよ。親爺が昔風だもの。
山岡:昔風って言っても........
土田:高村光雲先生なんかと仲間だもん。
山岡:そうすると、鋳物師でも、工芸品とか芸術品をおつくりになる鋳物師なんですね。
鈴木:‥‥ここにね、親爺があれしたものを持ってきたのね、こうしてね、みんな勉強して、彫刻したんだよ。(優雅な紋様の浮き彫りの「焼き型」を数個、取り出す)
土田:これは「焼き型」って言って、粘土で作るの。型にはめるの。これを砂の中に入れて型をとるの。それで抜いて.細かところは刷毛やなんかで、抜いて、その中に乾燥した、粘土でもって乾燥した土でもって、型をとるの。普通の砂じゃないの。
鈴木:これはね、粘土で全く焼いてあるけど、煉瓦は水の中につかってもとろけないんですよね。だから「焼き型」っていうの。
山岡:鈴木さんところの工場はどちらかというとこういうものとか..........
土田:それが本職なの。
鈴木:我々は、親爺が天水(桶)やってて、手伝わせられて、おもしれえなって、小さい時から、見てたの。
山岡:面白かったんですね。
鈴木:それで好きになっちゃったんだよ。でもよ、(親は)お前ひとりくらいは学問をして歴史でもなんでもあれしとけりゃいいと思って、文吾って(名を)つけたっていうんだよね。
皆:ほーっ。
鈴木:ところが、あたしはこっちの方が好きなんだよね。いやーおもしれーなって。でもね、親爺には、おまえ歴史の事はずいぶん明るいなって言われたもんね。小さい時からいろいろね。終戦になったと時ね、竜馬てのが好きになっちゃってね、坂本竜馬。あの人は、幕末に「日本」って言った人は(他に)居ないんだってね。幕府と何藩何藩だけだったでしょ、多少学者の人は、天皇てのがあるってわかってたけど、わかってたのは竜馬だけだったの、手紙に書いたりしたのは。33歳であれは死んでるんだけど‥‥‥(話がどんどん脱線し出す)。
山岡:文吾さんは、職人的なセンスもあるし、名前に合わせて、歴史にも明るいってことなんですね。
鈴木:わたしはね、こっち(焼き型を指差す)の方が好きだからね。何しろ、親爺の弟子にさせてくださいって言ったら、じゃ、弟子になるならね、一食一飯じゃなくて、さかづき渡すんだから、酒一升買ってこいって。
皆:(笑)
山岡:弟子になりたいとおっしゃったの何歳のときですか。
鈴木:学校卒業した時に。うちの兄貴たちはほとんどよそへつとめたから。
土田:小学校卒業したときだから、今でいうと11歳か12歳。
鈴木:今年で、あたしは鋳物を70年やってたことになるんだよね。ひとすじで。職業訓練校の指導も今年で30年だよ、なあ(土田さんに)。あたしはね、訓練校ていうのはね、文化を残すにはなければならないものだと気がついたの。たとえば、伝統を守っていくんだもんね。
土田:そう。
鈴木:鋳金で、茶釜をふいたり、鉄瓶をふいたり、みんなして研究してんだから。本物はね、こうやって長い時間かけてもいいんだなってね、魅力が湧いてこないようじゃね、仕事に飽きちゃってね、いやいややるようだったらもう来るなって言ってるんです。だから私なんか、何時に来てくれっていうと、昼間でもなんでも、飛んでっちゃいますよ。
山岡:川口は軍需産業としての鋳物で栄えたと、聞きますけど。
鈴木:あたしは12の時に弟子入りしたでしょ、ところが、昭和13年に、装飾品を作ってはいけないっていうことになったんだよ。せっかく7年間身につけたものをやってはいけないというんでね、名古屋ならまだやっても良いって言うんで、(名古屋に)すっ飛んでっちゃたの。そしたら、今度は名古屋でもやっちゃいけないってことになったの。それであたしもしょうがないから帰って来たの。それでもって、兵隊検査でね私が20歳になる(数えで)っていうんで、昭和13年の1月10日にね、麻布三連隊って東部8部隊なんですよ、そこに入隊する3日前にね、指をプレスに持っていかれちゃってね、そんなもんで兵隊行かれないから家戻って指つけてこいなんて言われてね。
山岡:どんなふうに怪我されたんですか。
鈴木:みんな昔手動だから‥‥
土田:あそこにあるでしょう(工場の中の機材を指差して)。ああいうチェーンブロックをやっていて、ひっかかっちゃって‥‥
鈴木:パッキンがね、ばーっと外れたんだね。2トン半のミキサーをね、はりかえていたんですよ、焼き型に。
山岡:文吾さんのおとうさまは、初め買湯をされていて、それから工場をもたれたんですよね。それはここですか。
鈴木:戦後。すぐこの近くに親爺の工場があったんです。
山岡:戦争のころは、まだ吉川さんの工場でやっていたんですね。
鈴木:終戦になってね、昭和23年に、うちの親爺がちょうと年のあれだっていうんで、定年で、そこで工場始めたんだよね。
山岡:それで、文吾さんもそちらへ行かれたんですか。
土田:長男がそこではじめてたの。
山岡:10人の御兄弟で鋳物の仕事をしたのは何人ですか。
鈴木:あたしと‥‥長男も鋳物屋にいたんだけど、金の方ばっかりでね、‥‥あんまり、そんなこと言ったら失礼だけど、55歳でね、アル中になっちゃったの。
山岡:川口では、どんな鋳物が造られていたんですか?
土田:大きな物は、(たとえば)うちの親戚の関口とらきちって言って、その芝川の今スタンドのあるところ、ダイエーのすぐこっち、に3000坪ある工場を、持っていたの。そこで私は働いていたんだけど。
山岡:船舶とか、トラックとかの。
土田:東芝と石川島造船。でっかい船のエンジンだの、ベースだのそういうの作ってたの。
山岡:いろんな種類の鋳物を川口では造っていたわけですね。
土田:そうそう、川口にくれば鋳物はなんでもそろっちゃうの。自動車の部品は辻井の工場で。あそこは昔はベエゴマ作ってたんだけど、錫杖寺の前って、こないだ言ったでしょ。
山岡:ええ、ええ。
鈴木:あの時分は、そこは学校の帰り道にあってそこの前を(通ると)、あぶねーだろうこのやろうって、こっちがおどかされたの。通りごしにね、向うから湯を運んでくるんだよ。
土田:通りをよ、湯が通るんだよ。
皆:ははははは(笑)
鈴木:ばか!湯が入ってんだから、あぶねえ、気をつけろってな。
皆:ははははは(笑)
土田:昔の川口の金山町なんかもね、こんな狭いところをみんなこっちの工場からあっちの工場に運ぶしってね、それはもう、しょっちゅう。
山岡:文吾さんは、学校に行くし、工場にも行くしっていう子どもだったんですね。
鈴木:ところがね、私の場合はね、ここでこんな話もあれだけど、うちのねえさんがね、生まれて半年めに腸チフスにかかっちゃったんですよ。それで脳をいくらかやられたんでね、あたしといっしょに三年まで習わされたんです。ねえさんをうまく面倒見ろと。それで、みんなは双児だとかなんだとかね、いっしょにいたでしょ。それでね、ねえさんが休み時間に表に行くと、女の人に蹴っとばされたりなんかしたりね、あたしは自分の、やせても枯れても姉さんがね、(そんな目にあってればくやしくて)それでなぐっちゃうの。
皆:くすくす......(笑)
鈴木:そうするとね、女を殴ったって言うんで、今度は男にぼろぼろに殴られちゃうのよ。それでもって、いつもわたしは悪者で年中立たされてね。それでもって、永瀬洋治(前市長)さんが、学校の百年祭の時、何年前だっけ(土田さんに話し掛ける).......その百年祭で、鈴木文吾さんの記録は誰も破れませんって言ったんだよ、
皆:くすくす..........(笑)
鈴木:それでよ、仕事の話かな、何かなと思ったら、立たされた回数なんだよ、それでみんなで大笑いしたの(にこにこ)。
皆:ふふっ(笑)
山岡:はー、そんなに暴れん坊だったのですか。
皆:はっはっはっ(笑)
鈴木:あたしゃあね、ねえさんがいじめられればね‥‥
山岡:まあね。(それだけじゃないだろうと思っている。)
鈴木:殴っちゃうんだけど、今度は男に殴られる。私が悪者になって年中立たされる。バケツと線香を持たされて。
山岡:線香?線香をなぜ持つんですか?
土田:熱くなる。
参加者のひとり:時間測ってるの。
鈴木:あちあちって言い出したら、そろそろだと。
戦時中:大島での修行〜結婚〜入隊
山岡:それで、陸軍の検査の前に怪我をして血まみれで検査に行ったんですね(話を戻そうとする)。
鈴木文吾さん(以下敬称略):それでね、川口帰ってくれば「移動証明」をもらえたんですね。でも恥ずかしくってこの町会では‥‥
山岡:検査で指がないってことで、兵隊に行けなくて返されたんだけど、だからって川口に帰ってくることはできないと。
鈴木:そりゃね、恥ずかしいよ。帰って来れないですよ。それで、橋の下にね。それで、さっきの鍋(鍋太郎さん)さんてのが、大島(東京)の出身なんだよね。亀戸の先の錦糸町、砂町ってあるでしょ、あの人は漁師の子だからね、丸七って鋳物屋で、焼き型では名人と言われた人なんだよ。鍋だとか、釜だとか作る。
山岡:帰れないってことで、その鍋太郎さんに相談されたんですね。
鈴木:.あのね。本があったのね。それに鍋さんのことが載ってたの。昭和の初めに雑誌に出るてのはたいしたもんだよね。(話が脱線しはじめる)
土田:うん。
鈴木:秩父の宮がね、あの時なんだったのかな‥‥16人でここを通った時に、6月で暑かったんだね。「やげんや」(当時川口一の大きな鋳物工場)ではね、紅白の幕をして、従業員には全部新しい作業着着せてお立ち寄りを待っていたら、さあ来ないんだよ。そしたら、芝川(鍋太郎さんの工場)に寄っちゃったから。
山岡:つまり?
鈴木:警察署長はクビになっちゃうしよ。
皆:はっはっはっ(笑)
鈴木:宮様がどっかいなくなっちゃったよって。
山岡:良さそうなところがあったんで、そこの寄っちゃってことですか。
鈴木:(かなり高揚して楽しそうに話す)なぜそこに寄ったかっていうと、やっぱり、宮様でもしょんべんがしたくなるの!
皆:わーーーっはっはっ(笑)
鈴木:原っぱがあったから、そこでしょんべんしたいって言ったら、いくらなんでも宮さまだからって、じゃ、あの工場でって。それが鍋さんち。
山岡:はーー
鈴木:でもよ、そのころね(身を乗り出して)、便所はねえんだよ。
土田:ないよーーー(あったりまえって感じ)。
鈴木:芝川だろ、菰かゴザを巻いて、なんか樽でな。
山岡:(話を戻そうと)鍋太郎さんの大島の親戚を御存じだったんですね。そして、そこで仕事をしたんだけど、移動証明書がないから‥‥
鈴木:住み込みはできません、ってことなんだよ。
山岡:当時は、移動証明が必要なのはなぜですか。
土田:米が来ないから。
山岡:(合点が行く)
鈴木:移動証明書があれば、配給制度の米が来るのよ。私の行っていた工場には(後の)女房の兄貴がいてね、「まったくねぇ、川口の職人でね、移動証明がねえからって、橋の下から野宿してんじゃねぇ」って(同情してくれて.........)。
山岡:橋の下から仕事に行っていたなんて!
鈴木:だってよ、泊まる所って言ったって、金もなくてよ。働かなかったら、金になんないんだから。半年いたんから(橋の下に)。
山岡:半年!?!
皆:半年!!!!(笑)
鈴木:だから、今考えたら、やっぱり、それはいい修行だね。それで、自分がこういうことで苦しいと思ったら、己が負けるからね。こうしてね、うちに帰るのが恥ずかしいんだったら、どんなことでもやってと思っていたらね、運良くね、その長男(後の女房の兄)がね、やっぱ、こういう職人が来てるからって(家で話したら、その)おふくろがうちに下宿させてやるから、連れて来いって(ことで下宿することになったの)。そしたらよ、その長男がガタルで戦死しちゃったんだよ。18年に戦死して、19年にお骨が帰ってきたんだよね。
山岡:その時は、もう下宿されていたんですね。
鈴木:そう。それが縁で、今度はその家は、田舎の福島に帰るから、鈴木さん、(うちの娘と)いっしょになってくれって(言われたの。)でもね、なんかね、結婚なんかしようって一度も考えたことないもんね。男だから兵隊に行って、と。帰された男だからね、なんとか、意地でもあれしなきゃ(戦争に行かなきゃ)ならないって。
山岡:コンプレックスになっていたんですね、戦争に行けないことが。
鈴木:いや今は、戦争負けたから、そういう気持ちにもなるけど、あの時代はね、戦争に行かなきゃ、男じゃないって言われたんだから、ね。
土田:私なんかは、16年の12月1日に佐々木でんちゃんとか橋本とかと、ああいう連中と支那駐屯歩兵第1連隊てとこに、麻布3連隊へ入隊して‥
鈴木:おたくの時は、麻布でなくて東部8部隊だろ。
土田:そ、東部8部隊。本郷連帯区だから。それから中国行って、終戦間際に、終戦でもって今度シベリア連れて行かれてシベリアで3年、まあ死ぬ思いして‥‥
鈴木:あの寒いところで、捕虜になった人は本当に気の毒だよねー。
土田:それでもって、帰ってきたら焼け野原で。うちはあったから良かったけど。
山岡:さっきの文吾さんの結婚の話ですけど、文吾さんはその女の人のこと少しは気に入っていたんですよね。
皆:ふふふ(笑)
鈴木:そんなことは‥‥私だって‥‥考えてないですよ(照れている)。‥‥それでさ、工場に行って弁当食おうって思って、箸をさそうとすると、弁当箱が持ち上がっちゃうほど、硬く詰めてあるんだよね。
皆:はっはっはっ(笑)
山岡:そのおじょうさんが、文吾さんたくさん食べてねって、詰めてくれたんですか。
皆:はっはっはっ(笑)
鈴木:いや、そんなんじゃないよ(まだ照れている)。下宿屋のおふくろさんが詰めてくれたのか、うちのかあちゃん(当時の下宿のおじょうさん)が詰めたのか、それはわからないよ。
皆:ふふふふ(笑)
鈴木:なぜかっていうと、わたしの弁当箱は木の箱なのね。どか弁とかそういうのはアルミでしょ。あたしはそんなの買えねぇからね、木で厚いんだよな、周りが。でよ、いくらも入んねぇだろうって、うんと詰めたらしいんだよ。
皆:あーー(なるほど)。
鈴木:箸つけると弁当が持ちあがちゃうんだよ。‥‥工場の職人がさ、そんなに詰めたらまずくて食えねぇだろうって言われたけど(にこにこ)。こっちは、まずいとかなんとかより、飯が食えればよ。それが飯だけじゃないんだから、ね。
山岡:はい。
鈴木:田舎に買い出しに行って、じゃがいもとか、さつま(いも)が入ったりね、麦が入ったりね、今で言う白い米だけだろうって思うと大間違いなんだよ。イモでもなんでも、ささったら、弁当箱もちあがっちゃうんだよ。でも、みんなにしやかされ(ひやかされ)てね。また工場のおやじがね、それを聞いて、よし、お前がそうなら、おれが仲人するって言って、一週間で決まっちゃってね。
皆:ほっほっほっ(笑)
鈴木:親方もね、みんな兵隊行って人がたんない(足りない)でしょ、だから、あたしが欲しくてしょうがねぇんだよね。その親方がね、あの時で150円、式に出してくれたんだよ。
山岡:150円ってけっこう多いんですよね。
参加者:そうよ。
鈴木:あの時に、あたしの手間(賃)が5円なんだよ、1日。
土田:5円もくれたかよ。もっとすくねぇだろ。
鈴木:5円じゃねぇか。
土田:2、3円だよ。.............でも、鋳物屋の職人はわりかた余計金もらったんだよな。
鈴木:なぜかっていうと、おれはね、みんなのできねぇ(技術があって)親方が、おめぇ、焼き型やってたんだから、売れるもの作れって。それが闇で売れたらしいんだよな。米を何とかな、ものがないんだから。
土田:それじゃあな。
鈴木:それで、親方はね、おれにずっと居てもらいたかったらしいんだな。「おったち」って言っちゃったけど。今考えると悪い言葉だったな。
山岡:「おったち」ってどういう意味なんですか。
土田:おだてられて、すぐすっとんでいくやつ、「おったち」っていうの。
鈴木:おだてるといい気になっちゃう。
山岡:結婚されて、大島に落ち着くんじゃなくて、川口の方にいらっしゃったんですよね。
鈴木:だって、うちが焼けちゃってないからね、それじゃ川口行こうと。あたしは昭和18年に東京行って、20年の3月10日に焼けちゃったから、帰ってきたんだよ。そうしたら、今度はおめぇ、海軍の招集が来てるでしょ。それであたしもね‥‥でもうれしかったよ。一生出られないんじゃ、かわいそうだもの。男として。
土田:おれなんか7年行っちゃったもんなぁ。
鈴木:それで海軍で‥‥ええと幾んちだ‥‥ええと。4月にはなんねぇんだよな、海兵隊に入ったの、横須賀の。それでひと月、訓練をやって、それから厚木に回されたの。平塚から。そこで終戦になったの。日本で一番終戦の早いのは厚木だもんな。マッカーサーが来たからね。
山岡:そうなんですか。
鈴木:帰ってくる時、おみやげうーーんともらっちゃってね。
山岡:おみやげもらう???
鈴木:自分で欲しい物はもってけっていうんだよ。
土田:軍の衣類がいっぱいあるの。
山岡:勝手にいいんですか。
鈴木:何が?
土田:自分が持てるだけ持ってくの。
鈴木:それでわたしもね、軍隊って言っても、テキ屋やなんかいっぱいいたからさ、少し兄貴分になっちゃってよ。
山岡:文吾さんが?
鈴木:うん、それで、小隊長やなんかおどかしちゃってよ。
山岡:ははははは。やっぱり。
鈴木:川口だってよ、おれは幸町にいたからよ、みんな‥‥石塚、知ってるだろ。
土田:うん。
鈴木:みんなやくざの.......
土田:幸町ってのは、新開地って言って、昔、女郎屋さんがあったとこ。
山岡:みんなお友達なんですか。
鈴木:‥‥‥ってのが.いただろ、あれがおれのおじぎの子分なんだよ。‥‥おめぇの先祖は何やってたんだって(うれしそう)。でね、今日はあたし、持ってきたの。水戸の市長が、毎年この名刺送ってくるの。これが今年の分。あたしはね、弘道館で生まれてるんですよ。
山岡:水戸大使! はーー!
鈴木:NHKの衛生放送で、去年11月取材されたんだよ。それをね、見たんだってこれを(自分のひげをしゃくって)、あっちの市長が。それでね、黄門さんやったらいいって‥‥ふふふふ。(とてもにこにこして、みんなを見まわす。)
山岡:うーーん。それはいい感じですね。
皆:ふふふふふふ(皆もにこにこ)。
鈴木:あたしもね、水戸で生まれだから。
山岡:(話を戻す)戦争が終わって帰ってくる時に、子どもをたくさん集めて帰ってきたって聞きましたけど。
鈴木:たくさんじゃないよ。3人だよ。
山岡:3人でもすごいな。その話聞かせてください。
鈴木:あたしがね、大島でやってた時、その子どもたちは学童疎開で山形行ってたんですよ。ところが帰ってきたら、親もみんな死んじゃったでしょ。学校の先生も、おっ放していっちゃったらしいんだよ。
山岡:その子たちはどこにいたんですか。
鈴木:浮浪者してたんだよ。(福島に義理の両親を送る為に)上野にいたら、(誰かが)「あんちゃん」て言うからよ。
山岡:知ってる子だったんですね。
鈴木:だからよ、3人で上野にいたんだよ。それで偶然ね、上野で会って、「あんちゃんでないか」って言うから、これも何かの縁だと思って、その子らの親死んだの知ってってからよ、「俺のところ来いよ」って。連れてきたら、うちの親爺にこっぴどくおこられちゃってね。まあだね、おっかあだって食わせることができねぇのにね、子ども3人もつれてくるなんてと。.......それでわたしもね、どんなことしても、連れてきたんだからね、弥平に行って...........
山岡:ヤヘイ?
土田:今、日産ディーゼルのある所。
鈴木:東京との境。そこの4畳半借りて、うちのせがれなんかといっしょに、6人で暮らしたんだよ。それはね、今考えたら、いい修行になったのね。苦しんだって言うことは、自分で負けるんだってね。ああいう体験したから、今こうやって幸せなんだって。その喜びを心に持っていれば、その人が一番幸せなんじゃないの?(と、参加者に語りかける)
山岡:うん(うなずく)
鈴木:どっかからだ悪くってもよ。こうやって丈夫だよって。あたしだってね、3回も手術したりね、足がなんかね、しえちゃってね(冷えちゃってね)、足袋を履いて、それからこれやってないと(毛糸の靴下を上から履いているのを脱いでみせる)いられないんですよ。しえちゃって。寝てもアンカ2つおいてね。(でも)これをいちいち、こぼしごとしたら、おのれが負けちゃうの。あたしゃ、幸せだよと、そうするとね、病気がいつのまにかすっとんじゃってね。
(休憩に入る。この間に土田さんが消える!?あとで登場します。)
戦後/転機:天水鉢の仕事〜聖火台の仕事
山岡:では、戦後のことをおたずねします。アメリカの芸術家イサムノグチさんに頼まれて、何かお作りになったそうですね。
鈴木文吾(以下敬称略):試験場がね、中央公民館のそばにあったからね、山下誠一さんてのが鋳物に相当明るい人なんですよ、うちの親爺が焼き型師で有名だからって、連れてきたんだよね。それがうちの始まりなんだよね。それから笠間から仕事がきたりね。その時ね、日本の伝統的な「コウ」って言うのあってね、「コウ」って言っても、においを出す香じゃないよ、ちいちゃいね、金の音色。よく神社なんかに、五重の塔の中に下がってるでしょ、あれは風がふいても聞こえないけど、そういうなんかね、東洋的なものをって、うちの親爺がやったの(風鐸のようなもの?)。それが新聞に出たんだよね。今度は笠間稲荷から3尺の大火鉢をやってもらえないかって来て、やったらそれがまた新聞に出たんだよね。それで、元郷の氷川さまからそこは天水鉢がないから、それをやってくれって、年号を見ると昭和30年になってるけど、29年に注文があったんだよね、それでね、そこに文吾作って入ってるんです、親爺が万之助でしょ、いやーもううれしくてね。名前をいれてもらうことがこんなにうれしいかと。そうしているうちに、三峯さん(秩父の三峯神社)から、注文が来て、やったの。それで、三峯さんやって新聞に出て、今度は聖火台が来たんだよね。
山岡:その後は常に「文吾作」ていう、名前入りなんですね。
鈴木:三峯さんの時は、うちの親爺と設計が山下さん。なぜ設計したかっていうと、あれが違うんだよね。ケーブルカーに載せて運ぶでしょう、ドアがこれっきり(手で幅を説明する)しかないから、長いと困るんだよね。台を少しにしてやればサイズをいいんだろうかと。
山岡:サイズもデザインも山下さんオリジナルですか。
鈴木:そう。それがきっかけで、アジア大会の仕事が32年の夏頃に来たんだけど、決まったのは11月ごろね。それでかかってやった時に、今度は3月に、失敗したってことで............兄貴たちは親爺が死んだことを知らせれば、あたしが...........
山岡:その話は知らない人もいるので、詳しくお聞きしたいんです。アジア大会の聖火台はむづかしい仕事なんですか。
鈴木:むづかしいっていやぁ、なんだってむづかしいけど、それは2トン半でしょ、石川島では、それに20万出すって言ったら、そんな1個ものでね、そんな段取りしていたら、損になるって言って、それは断ったらしいんだよ。そしたら、大野さんがね......
山岡:大野さん?
鈴木:大野さんっていたんだよ、市長が。それじゃうちは鋳物の町だからね、誰かにやらせるよって受けてきちゃったんだよ。ね。2トン半てのはね、ここに今ある枠の3倍以上の目方をつくらなければ、できないんですよ。工場もでかい工場を借りないと、ここじゃ出来ないからね。「内燃機」の工場を借りたんです。
山岡:この町にあるんですね。
鈴木:あったんですよ、飯塚にね。「内燃機」はエンジンなんかで伸びたからね。
山岡:大きい物をやるところなんですね。
鈴木:うん、そこの工場があいてるから、そこを貸してやるから、どうかっていうことだったの。それで、親爺がお前がやってもいいっていうなら、受けるよって。それで、私がこの半纏を着た時には‥‥あたしはね、女房子どもをおいて広島に飛んでったことがあってね。広島でできない釜をあたしが編み出そうと思って。小判のね、五衛門風呂じゃない小判型ってね(半纏の裾に小判の絵が書いてある)。
山岡:あの‥‥その話と聖火台の話と関係があるんですか。
鈴木:焼き型だから。ね。昔は、五衛門釜っていうのは、まあるいやつなんだよね。そりゃ、入っても入りにくいやね。それで、広島のほうのは浅いんですよ。深いのはね、生型ではできないんだよ。向こうは生型でやってるの、浅いから、楽でしょう(湯舟にはいるポーズ)。
山岡:あの、生型ってなんですか。
鈴木:生型ってのはね、「やげんや」さんがね、江戸時代から薬を粉にする、漢方薬やらを作るやつをやっていたところが、明治になったら、イギリスの生型技術を取り入れて、あそこで教えて、生型だとすぐ仕事が大量にできるんです。だから木型屋が、こんだぁ宮大工でちょっとした人が、それならおれもできるよって、それで木型屋が増えちゃったんだよね。生型は明治になったら、ばーーーっっと増えて、焼き型てのは、あまり金にならないってやめたでしょ。時間がかかるんです。
参加者のひとり:生型は、砂でしょ。焼きしめしてないの。
鈴木:粘土を混ぜて、練ってからね、自分でしめなきゃならんの。だからわたしなんかね、(両手の甲をばしばしぶつけあわせながら)それでもって、ぴゅっぴゅっぴゅっぴゅっしめるんです。そうすると、ここが紫色になっちゃうもんね。煉瓦でしめたんじゃだめなの。
参加者のひとり:聖火台は生型でしょ。
鈴木:いや、あれは、焼き型でやるから、どこの鋳物屋でもできないんだよ。
参加者のひとり:そうですか、あんなに大きいのに。
山岡:なるほど。(だから広島に五衛門風呂の作り方を学びに行ったんだと悟る、たぶん。)
鈴木:ひと月の間にね、親爺が死んだ跡に、あたしがまとめたってことはね、35才だからね、なんたってね、それで36才に完成したけどね、数えで37才だろうけどね、結局ね、1週間寝ずに仕事したんだから。今だったら、死んじゃってるよね。それだけの気力があったの。
山岡:おとうさまは、失敗してショックで、倒れられたんですね。
鈴木:なんかね、失敗したってんで、うちで飲んで、3日くらいで死んでんだよね、後でよく聞いてみたら。兄貴たちが、5日目に工場に来てね、親爺ちょっと疲れてるからね、あしたくらいは来るからがんばってくれよって、言うからね、親爺が死んだなんて、夢にも知らずやっていたらね、内燃機の今年死んだ岡村じっぺいさんて社長がね、103才でなくなってるんだよ、その人がね、よう、鈴木さん、今日は親の葬式なのに、お焼香もしないで工場来てんのかいって言うから、おれはびっくりしてよ、真っ黒い顔してよ、自転車で飯塚から飛んで来たら‥‥そしたらね、霊柩車が出るとこだったの。それであたしもぐっと胸に来ていたら、近所の人に鈴木さんもらい泣きしましたよって、言われたんだよ。(涙があふれ出し、声が震える)‥‥もう‥‥親が死んだってのはあんなに悲しいもんかね。もう胸がいっぱいなっちゃってね。それからあたしはやるぞって、川口のためにも国のためにもがんばってやるぞって。あれがよかったんだね。親爺が死ななかったらね、あの聖火台はできなかったかもしれない。それでわたしが1週間も寝ずにやったって言ったら、みんながね、(声がかすれて)鈴木さんが死んだからって、応援してくれたの。だからね、あたしはね、うぬぼれないの。鈴木さんが作ったんだろうって、言われると、いや、3人でやったんですよって。私は兄弟のことけなしたりしないの。みんなでね。それでね、結局あれを(オリンピックに)使うってことがきまったのはね、38年にね、なんか新聞に出たんですよ。実はね、新潟のね、発掘した火焔土器を使うって話があったらしんですけどね。
山岡:火焔土器をオリンピックに使うって話があったんですか?
鈴木:火焔土器を作るって。だけどね、担当大臣の河野一郎さんがね、何言うんだ、東京オリンピックはアマチュア精神だ、プロじゃない。川口の一介の職人親子の、アマチュアの人が作ったものが良いんだって言ったの。
山岡:アマチュアなんですか??
鈴木:それがふさわしい、と言って一発で決まったんだって。あたしはね、競技場へ行って(本をめくる仕草)、見たんだよね。やっぱ、えらかったんだね、河野さんは。それで、新潟の方は、冬のオリンピックを長野でやることになってね。あれでおしまいだら、なんかこっちもね。でも、借金したらしいよ、みんなそうだろ、景気がいい時なら、いいけど。ということで、気が済んだと思うよ。
山岡:あれはどのくらいの大きさですか。
鈴木:直径2メートル40。
参加者のひとり:あれも、惣型でやるんですか。
鈴木:そうそう。高さも同じ。楕円形になってるから。
山岡:時々、「磨き」に行かれるんですか。
鈴木:毎年行くよ。
 (当時のアサヒグラフより転載)
心と技、そして健康
鈴木文吾(以下敬称略):あたしはね、ここにシゲ(ひげ)を立てたのが、昭和40年。39年に出た新聞であたしのことを知った古賀園長ってね、上野動物園の園長からね、40年に招待状来たんですよ。それで行ったらね。
山岡:はい。
鈴木:やあ、鈴木さんは、鋳物師だけど、あんたもね、ほこりの所にいるから、シゲ(ひげ)を立てたらどうなのって言われたの。なんでかなっと思ったら、あたしも歯槽膿漏があったの..........
山岡:え?歯槽膿漏?
皆:(ばらばらに笑)
山岡:シゲって何かと思った。
鈴木:(にやり)あたしもね、上はあったけど、下はなかったの。そうしたらね(ヒゲを立てたら)、なんか今までの、身体のあれ(調子)が変わってきたの。
山岡:ヒゲをつけたら?
鈴木:(おお真面目に)シゲつけたらね、いくらかね空気のあれが、ここであれしてくれるみたいなの、ほこりやなんか。
皆:ははははははは(笑)。
鈴木:その話を聞いたのはね、アフリカからチンパンジーやゴリラやなんか上野に連れてくるんだってね。それでね、上野は空気が悪いから鼻毛がものすごく伸びちゃうんだってね。
皆:ほーーーーーーー(なるほど)
鈴木:それで、園長さんが、鈴木さんもシゲを立てた方がいいんじゃないですかって(やはり大真面目)。マスクなんかかけて鋳物屋で仕事なんかしてられないもんね。
山岡:なるほど。
鈴木:おい、手袋なんかしてたら、良い仕事できねえぞ、っておどかしてたんだから。素手でもってね、やって始めてわかるの。それから、こうして砂を舐めてみたりするでしょ。みんな何やってるのか思うけどね、女の人が料理の味見をするのと同じなのよ。(指を口のあたりでこすりあわせながら)どのくらい、砂が、細かい砂が入ってるだろうかとか、手よりベロってのはずいぶん、すごくあれがあるのよね。
山岡:繊細。
鈴木:(大きくうんうんうなづく)
山岡:肺の病気にはかからなかったんですか。塵肺(じんぱい)。
鈴木:川口じゃね、あたしの肺は強い方なの。あたしは年中そこの芝川でもぐりやってたからね、相当息が強いんだよね。小さい時から、なんか体操も人に負けなかったの。
山岡:どういう体操ですか。
鈴木:(立ち上がって、軽々前屈する。)
皆:ほーーーーー
鈴木:みんなね。80過ぎたらこういう人(前屈のできないポーズ)が多いんだから。だからね、身体は動かしてなきゃだめ。ここから家まで45分かかるんですよ、家は新井宿だから。自転車で通ってるの。
山岡:いつも自転車で来てるんですか、45分、かけて。
鈴木:そうだよ。
山岡:天水桶や聖火台を磨きに行く話ですけど、なぜゴマ油を使うんですか。
鈴木:なんでってね、鉄はね、さびがくるでしょ。夏なんかに膨張してね、線路だって橋だってね、セメントだって、アスファルトだって、びーっとのびるでしょ。あったかいとのびるの。だから線路のすき間、割っててあるでしょ。と同じで、それで鋳物ってのは、一番、顕微鏡で見てみると、空間があるんだよね。あったかいとのびるし、寒くなると縮まるから。じゃ、暖かい時にゴマ油を持っていって、塗ると、その空間に油がしみ込んで行くんだよね。
山岡:やっぱりゴマ油ですか。
鈴木:ゴマ油はね、なぜかっていうと、一番高いんだよね、油の中でも。それでね、斉藤道山があれした、岐阜のあの油が、未だに一番高いね。そのいい油を持ってくとね。女の人が、油でも特ににおいがいいねって言うんだよ。私が行くと、ゴマ油の良いにおいがするよって。今のサラダ油なんか使ってもにおわないの。うちの親爺もやっぱりゴマ油を使って、成田さんとか宗吾霊堂の.......あれは昭和何年だっけな、あれは供出されちゃったんだよね、戦争中にね。川口だってね、金山線の単線があったんだけどね、それも全部(供出されたの)。戦後にあたしにやってくれっていうから、やったんだけどね。
山岡:デザインも文吾さんが考えたるんですか。
鈴木:だからね、ノグチイサムが来た時も、デザインもちゃんとした人にやってもらえば、装飾品としていいものが残るんではないかと、親爺がね。そして、山下先生に言ったら、ええ私にできることでしたら、いつでもお手伝いしますよっていうんで。
山岡:そうだったのですか。
鈴木:今88歳かな、大分足が悪くなって。あたしが行くとね、ああなんか懐かしいなって。
山岡:山下さんがデザインをされるんですか。
鈴木:うん。あの人に相談すると、お寺に言ってよく聞いて聞いてきなさいとか、何年ごろあれしたかって(アドバイスしてくれるんです)。
山岡:戦後は、天水桶を作ったり、鐘を作ったり、そういう仕事が中心ですか?
鈴木:うん‥‥人間はね、なんてったて天職だと思って、一生懸命やってるとね、なんか間違ったかなと思っても、間違ったんではなくて、いいアイデアが湧いてくるんだよね、なんていっても仕事にほれてね。だから、私は、国にほれて、仕事にほれて、女房にほれて、この3つだけ考えてればいいって。これを訓練校で最初に言ったのはね、仕事にほれて、女房にほれて、国にほれて、だったの。そしたら、岡田さんって人が「やあ、国の方が大事なんだよ」って。
皆:(笑)
鈴木:それから、「心と技」って言ったら、「やぁ、おれは技の方が先だなって。」
皆:ははは‥‥
鈴木:技をあれしたから、心がここまで来たんだよって。でも、後で聞いたら、どっちでも、同じなんだってね。相撲なんかも、よく心技体って書いてあるでしょ。順番なんていいんだよ。
山岡:技術の勉強のお話の事ですが、長州風呂の作り方を学びたくて、職人であることだまって山口に行ったら、姿で、ばれたと聞いたのですが。
鈴木:やっぱりね、目の動かし方がだとかね。私は商人だって言ったの、金物屋の。
土田:はっは。
山岡:商人だって偽ったんですね。
鈴木:向こうはね、職人が入ってきて仕事を盗まれちゃ(困るから)、鉄錠門って言って、一般の人を入れないんだよ。それでよ、先代の前掛けかけて行ったんだよ。
山岡:変装して(にこにこ)。
鈴木:そしたらよ、ありゃ目の動かし方が侍だってさ。ごまかしてもよ、あいつはちょっと違うぞって。見破られたよ。それから、平和の鐘のことで、大阪の花の万博行った時も、行きも帰りも検査官にひっかかっちゃったよ。
山岡:えっ?
鈴木:検査官。こうやってやられちゃったのよ。(からだを調べられる手つき。)みんなで行ったときに、一服しようって、こうしてたら(煙草を吸うしぐさ)、指が2本ねえのを見たらしいんだよ。
皆:あーーー
鈴木:それからあたしの構えがね、ぱっと来たらよけられるように、足の構えが違うんだよ。こうしたら(のけぞりながら)後ろひっくり返っちゃうだろ。柔剣術とか剣道をやった人はちゃんとこう(足の構えを見せる)............
土田:八双の構えって言うの。
鈴木:相撲だってね、まともな構えたらね、襲えないんですよ........それで、煙草を吸ったりしたらね、つかまっちゃったの。また帰ってくる時もね。
皆:ははははははは(笑)
山岡:ただものじゃないってことですね。
鈴木:そう言う風に思われたんだね。これがないってのが、(右手の小指と薬指のあとを見せながら)失敗なの。やくざはね、掟をやぶったりして、つめられるてのは、左より右の方が罪が重いんだってね。それで、2本でしょ。相当悪いんだよ。(ガハハと照れ笑い)
皆:(笑)
山岡:そういうふうに新しい技術を覚える為に、出かけて行って見たりと言うことはよくあったのですか。
鈴木:昔はね‥‥丸七っていう日本一の半纏があるんですよ。それがもらえれば、日本全国どこ行ったも、鋳物屋ではちゃんとわらじ銭をくれるんですよ。半纏で値うちがあるんだよ。昔はなんって言ったって半纏だよなっ(土田さんに)。
土田:うん。
鈴木:川口にもあったよな。
参加者のひとり:丸七はね、深川にあった鋳物屋(金物屋)さんのマーク。三菱ならダイヤモンドのマークがあるように、丸に七てあるんです。
山岡:それはそこに働いている人だけでなくても、手に入れることができるんですか。
参加者のひとり:うまく修行して、そこのうちでもらえれば、日本中どこでも通じるんです。
鈴木:それだけの、価値がなくっちゃもらえないの。
山岡:(深くうなずく)
鈴木:あっただろ、川口にも。金山のあれなんて言ったっけ。(土田さんに)
土田:矢崎?
鈴木:それじゃなくって。
土田:石川さん?
鈴木:‥‥鍋平。鍋平ってのはね、言っちゃ悪いけど、川口で金物屋始めようってもさせないんだよ、自分のお得意とられちゃうから。
土田:江戸時代からあんだよな。
鈴木:やるんだったら、よその土地行ってやれっていうんだよ。そういう掟もあったらしいんだよ。
2つの郷土、水戸と川口
鈴木文吾さん(以下敬称略):何しろね、川口って所のは、土手ができたのは水が出るからで。あの荒川ってのは、人工の川なんだよね。元荒川ってあるでしょ、あそこは水がうんと出るから、こっちに少し水をあれしようと思ったらね、こっちは水が出るんで、明治44年にあの土手が完成したの。岩淵に水門作ったのもね、それはそんな古くないんだよ。水が出ると東京も水びたしになっちゃうんでそれで水門作ってたの。そしたら、芝川がもう水ばっかりでちゃって。今は水は出なくなって、芝川はどぶだよ。
山岡:文吾さんは仕事一筋ですけど、趣味はありますか。
鈴木:趣味?趣味はね、それはなんにもつかめないんだよ。こっちが好きだから。親爺は釣りがすきだったけどね。自分の一番好きなことが一番勉強になると思ってね。これひとすじに。後はかあちゃんだけ思ってればいいと思うの。
皆:(笑)
鈴木:あたしは小さいときから、見てたからね。やってみたかったの。鉄瓶の口だとか、うちにまだいっぱいあるんだよ(焼き型が)。
山岡:(鈴木さんの持って来た古い焼き型を差しながら)ここのデザインの組み合わせは鈴木さんがされるんですか。
鈴木:最初ね、絵描きやんかが描いたやつをのっけて、墨をつけるの。それを親爺が勉強したらしんだよね。そんときは、岡倉天心だとかが、狩野派と上野の美術学校がごたごたして、横山大観だとかをつれて、水戸に半年居候したんだって、鋳物屋に。塩原ってところ。鋳物屋は、小泉と塩原と二軒あったんですよ、水戸のお抱えの鋳物屋が。蔵は48あったんです。
山岡:それで文吾さんのおとうさまは、こういう技術を川口に持ってらっしゃったということですか。
鈴木:うちの親爺は、まあ不幸な親爺でね‥‥なぜかってね、水戸に弘道館ってあるんですよ、そこで師範代やってたんだけど、うちの親爺は職人でしょ、そこの一人娘とふたりで駆け落ちしただかなんだか知らないけど、随分ね、私が生まれるまで、日本刀で追っかけまわされたって言ってたよ、叩き切っちゃうって。
山岡:へーーー。
鈴木:職人ふぜいに騙されたってね。(笑)
山岡:で、こういう技術を川口に持ってきたひとなんですね。
鈴木:川口は鉄瓶だよね。
参加者のひとり:川口にも、工芸鋳物をする職人さんもいたんですか?
土田:川口はね、鍋釜を免許を江戸からもらって作ってようです。本によると、今から400年も500年も前の鐘、有名なお寺の鐘がいっぱいありますけど、それとか天水桶とかそういうのを、川口の永瀬さんだとかそういう有名なところがみんな作ってたようなの。
山岡:川口ではそういうものが中心で、繊細な工芸的なものはなかったんですか。
鈴木:それはね。徳川の御三家でしょ、水戸は。加賀の百万石からそういう彫刻家や画家、宮大工を呼んで、こういうものをしたの。そして将軍家に献上していたの。川口はそこまではしていなかった。
土田:そう、そう。
参加者のひとり:水戸から来た人たちが、技術的なレベルを上げたってことは言えるんではないですか。
土田:長州風呂だのなんだのってのが、川口のメインだったの。親爺さんは、こういう技術を持っていながらも、鍋でもなんでもを作るとちゃんと作るから。
鈴木:昭和13年に、装飾品はだめだって言われて、それから生型やるようになったんだよね。親爺は随分苦労したんだよな。
土田:苦労してるよ。
山岡:そうすると鈴木さんのところは、川口の中でもちょっと特別なんですね。
土田:技術は浮き上がっていいたんですね。川口の一般の製品とちょっと違うの。
山岡:皆さん、何か聞いてみたいことはありますか。
鈴木:そうだね、何か質問でもあれば。
参加者のひとり:私が子どもの時に、よく鋳物屋さんが近所にあって、生型って言う、御飯を炊くお釜みたいなところに、よくぶっつくとそこがぽこっと取れちゃうんですよね。そうすると、おこられて、お尻叩かれて、立たされた記憶があるんですけど、あれって、ちょこっと触るとこわれちゃうような物だったのですか?
鈴木:、生型はね。釜はね、大きいのとちいちゃいのがあるでしょ、「くど」のところにのせるわっぱがあるんだよな、それは、生型でばんばんばんばんつくってたよね。
土田:こちらで作ってたのは、焼き型って言って、焼くの。
鈴木:一日に何回も抜いちゃうんだよ。硝煙もあるし、墨もあるし、温かいうちにね。バーナーなんてないから、何回も張り替えをきかしたの。今度もね、あたしは、茶釜をね、一個一個でなくて、張り替えをやってみようと。あんな時間かけてやっても、みんな一回でぶっ壊しちゃうんだよ。そりゃね、できないやつもあるよ、中にはね。でも、たいがいできるんだから。鉄瓶だってね、そうしなきゃ、本当に商売になんないよ。
土田:昔のね、和銅開珎ってお金があるでしょ。粘土に型をとるでしょ、それを剥がしたやつの中にあるのを取って、又入れて、又剥がしてって、何回も取るの。
鈴木:何回も取るの。ひとつのやつで...甘太郎焼きっだってなんだってね、一つの型に入れて、何回も............
山岡:甘太郎焼き!(川口名物の鯛焼き)
鈴木:原理は同じだよな(いたってまじめ)。
山岡:原理は同じ!
皆:ふふふふ(笑)
土田:耐火物、耐火粘土って言って黒煙なの。粘土の上に、火に強いやつを塗るの。雲母の粉をばーつと振って、型のところに層を作らせて、ぱっと剥がれるようにするの。
鈴木:そうすると何回もできるの。
参加者のひとり:戦前の鍋釜を作っていた作り方と、今現在、鋳物教室で作っているのは、配合の分量は違うんですか。
土田:今はまるっきり違う。
参加者のひとり:違うんですか。
土田:今はね、ヘルモルドって言って、この鈴木さんが先生で教えてくれるけど、耐火粘土の中に、入れるの。蝋で作って。テンプラみたいのに、何回も入れて、また乾かして。火であぶるの。それで、形が出来て、それから蝋は溶けてみんな出て来ちゃうの。テンプラにつけて、乾かしたやつの、そっくり同じ形ができるわけ。蝋型。それに湯を、鉄を入れるとそっくり同じ物ができるの。そういった技術を今、ヘルモルドって言うの。1ミリの100で割った5から10分の1、コンマ1くらいの誤差で、できちゃうの。
参加者のひとり:川口の鋳物って一口で言っても、一般的に鋳物の町川口って言うと、どういう年代をイメージしてるのかなあって思うんです。
土田:いやあ、そこの辻井さんみたいに自動車の部品作ってるあの大きい工場も、型を抜くんでもなんでも、自動でもって抜くから‥‥誤差がないようにしなくちゃ。自動車の型の中に入ったら、ばーつと削って、穴空けて穴空けてで、1回で出来ちゃう。外の寸法がちゃんとしてないと、機械にばっと入らない。
参加者のひとり:機械の部品を作る鋳物と、造形品を作る鋳物とは違うんですよね。
土田:文吾さんのやってる、鐘なんて、それこそ、手でこうやって、それから乳首なんてのは(自分の乳首に手をあてながら)尺八つある。半鐘てのは、なんで半鐘なのかってのは、ちょっと文吾さん話してよ。
鈴木:半鐘ってのはね............尺八寸のものが釣り鐘って言うんですよ。その半分の寸法だから九寸。だから半鐘っていうの。そこにあるのは、九寸じゃないですよ、尺八寸あるの。
参加者のひとり:もっと大きいのはなんていうんですか。
鈴木:それも釣り鐘。梵鐘。いくらでかくったって。......こないだの、大分の60何キロの梵鐘の写真を送ってくれたけど、いくらでかくても梵鐘。尺八って(笛を吹く手つき)をあるでしょ。あれは長さはどうってことないんだよな。なぜかっていうと、釣り鐘のところに入れるあれが(手を丸くする)、一すう(?)と一すうで尺八寸になるの。
土田:やくざもんの刀が尺八寸。あれすぎると脇差しなくなっちゃうから。
山岡:鈴木さんが、そのゴマ油を、塗りに行く所って、何軒くらいあるんですか。
鈴木:富山だとか、福井の方はあんまり行けないから、鈴木さん、色が大分変わってきたっていうと、連絡して行くんですよ。御馳走してくれたりね。一度、福井行った時、雪でもって長靴はいて行っったら、わらじ履いた方がいいっていうんで履き替えて、帰りにそのまま新幹線でわらじ履いてたら、みんなして見るんだよ(にっこり)。そして、それ行った時は、秋でしょ。松茸をごってりくれたんだよ。それをふたりで一杯のみながらね、何キロって食っちゃったんだよね(新幹線の中で)。
皆:はっはっはっっ。
鈴木:お土産にしようと思ったのによ。おれら、そんなに食ったことないからよ。
山岡:埼玉県だと、どのくらいあるんですか。面倒見に行く所は。
鈴木:三峯さんは来年で50年でしょ、一度も空したことはないよ。‥‥うちのかあちゃんには、あんたがしっかりしないから、おとうさんを殺したんだって、いつも言われてんだよ。確かに、おれがしっかりしてなかったと、思ったよ。その駄目になったやつ(聖火台)が、今、川口の青木(公園、陸上競技をするところがある)に飾ってあるんだよね。今年は、県の国体があるんだよ。
土田:うん、うん。
鈴木:まわりに手すりしたりした。じゃないと、落書きしたりするやついるんだよね。忠霊塔の脇にあって、罰があたる。‥‥.鈴木さんは現在生きてるんだから、鈴木さんの声が出るようにしていいですかって、言うからね。私のような人間がそんなことしてもいいんですかって言ったら、鈴木さんの声で、親爺が聖火台作っていて、死んでこうなったっていう話をしてもらえないかって。ボタンを押せばでるやつ、造るんだって。
皆:へーーー
鈴木:あたしも、川口がそうやって真剣に考えてくれてるなら、と思ったよ。なんたって、学校の方も生徒がどんどん増えて来てるし。やはり、うれしいんですよ。伝統だか文化だかしらねえけど、鋳物屋がどんどんやめてるんだから、こうやって、いろんな人が聞きに来るってのは、うれしいよ。自分の仕事が好きで、こうやって83歳まで来れるんだから、幸せだよね。これでね、身体が弱いんじゃね。なんて言ってもね、身体が丈夫な人が愚痴こぼしたら、笑えるっていうけど、ほんとだよ。
土田:だけど、(身を乗り出して)丈夫なのは、おれとお前くらいのもんだな。
皆:ははははははは。
鈴木:おまえ、ぱっと動けねえだろ。
土田:今だにでかいバイクのってるよ。
鈴木:おれは自転車だよ。
山岡:自転車で45分ていうのはすごいですよね。
土田:おれだったら、五分だ。
皆:ははははははは。
鈴木:弟がよ、自転車じゃ大変だろって言うんだよ。だけど、おれは、「大変」て言葉をだいたい使っちゃいけねえって、親爺に言われたんだよって言ってやったの。「大変」って言葉を出すと、己が負けるんだから。絶対それは使うなよって。うちの親爺なんか、おふくろのことで、何回たたっ切られたかわからないんだから。
山岡:そうだ、それは「大変」じゃないんですね。
鈴木:十回くらい追っかけられたんだってよ。池畑孫じろうっていう人力士がいてな、身体中、入れ墨だらけなんだよ。その人が「おい、おれをたたっ切ってから、万ちゃんをやれ」って言ってたんだ。さすがのその入れ墨見ただけでよ、人は逃げて行くんだよ。昔は人力士なんてのは、ちょっと変わった人間だもな。
土田:うん。
山岡:鈴木さん、愚痴を言わない、大変と言わない、ですね。
鈴木:そう、それと女房をけなすような男は、全然ゼロだからね。日本は、アマテラスオオミカミが神様なんだから。アマテラスは女だから、神社は争いをしないの。
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