川口談義第2回「本町金山町のおかみさんたち」
日時:2004年2月28日 午後2時より4時まで
場所:川口市本町一丁目 浜田邸 蔵にて
[話し手]

永瀬節子さん、福田好子さん、池沢清美さん、 中村ヒサ子さん、増田咲子さん、朝比奈ルイさんら
[参加話者]
永瀬洋治さん(前市長)、土田裕さん(写真家)
司会進行:山岡佐紀子
写真:長沼宏昌
紹介、お嫁に来た経緯〜国防婦人会
山岡:皆さんの御結婚されているのですか?
永瀬節子さん(以下敬称略):一度ね。(笑)
山岡:川口生まれの方はどなたですか?福田さんだけですか。他の方はどちらでお生まれですか。
中村ヒサ子さん(以下敬称略):東京の浜町です。
山岡:浜町からこちらにお嫁にいらっしゃったのですか。
中村:ええ。こちらには1年しかおりませんで、子供を生んだ後、実家に5年くらい帰りました。でも、戦争になって両親がこちらへ来るようにというので、栄町に戻りました。それから息子がこちらへ来いというので、こちらへ(本町)移って参りました。
増田咲子さん(以下敬称略):わたくしはね、文京区の本郷三丁目。わたくしがお嫁に来た時は、まだ本郷区だったの。戦後東京23区になった時、本郷区と小石川区が一緒になって、文京区になったのね。あのね、赤門のそば。
山岡:では、福田さんは? 川口のどこか別のところからこちらにいらしたのですか?
福田好子さん(以下敬称略):いいえ、うちは本町1丁目の角の洋品屋です。そこで生まれました。
永瀬節子:そこにいるから、一番よくわかっているのよ。
山岡:お婿さんをおとりになったのですか。
福田:いいえ、とっくに独り者です。せがれは54、5歳にになりますけど。 ---みなさん、お知り合いですか。「婦人会」で御一緒なのですか。
福田:そう、みんな近所です。
山岡:最初に皆さんにお聞きしたい思っていますことは、お嫁にいらした時、どんなことをお感じになられたということです。
中村:わたくしは、橋を渡る時は、泣いてきました。お見合いだったんです。
山岡:それは心配でですか?
中村:そうですね。(しんみり)
山岡:増田さんはどうですか。
増田:わたくし?わたくしはね、ずいぶん田舎来ちゃったなって。
中村:そうそう。
山岡:いつごろですか。
増田:昭和22年。赤羽からバスで来ました。橋も小さいし、赤羽も今と全然違ってさびれていました。
山岡:お嫁にいらしたおうちはお仕事は何だったんですか。
中村:鋳物屋さん。
増田:うちは何もやっていないうちでした。前に郵便局をして、やめたうちでした。おしゅうとさん、わたくしが来た時はもうなくなっていて会っていませんが、その郵便局の局長をしていました。
山岡:永瀬さんは、どちらからいたしたんですか。どんなおうちへいらしたんですか。鋳物屋さんですか。
永瀬節子:私は浦和から。もう60年前よ。昭和18年。鋳物屋さん。あの時はキューポラって言っていました。
山岡:工場の仕事もなさっていたんですか?
永瀬節子:しない、しない。
山岡:ではいわゆる主婦ですか。
永瀬節子:まあ、そうでしょうけど、あの時分、お手伝いさんもいたから。あの戦争中だから、子育てが忙しかったの。子供をつくらなけりゃいけなかったの。結局ね、何故、早くお嫁に来たかってことは義理の父親が戦死したんですよ。その跡取りっていうのが、私の主人ですけど、その人はもう兵隊行くのわかっているわけですよ。いいも悪いもないのよ。あのね、みんな戦争行っちゃうから、今来ないと独身になっちゃうと思ったから。兵隊行く前に子供作ったから、なんとか帰ってくるまでに、子供育てなけりゃいけないと、ね。一番ね、戦争の大変だった時なの。
山岡:「婦人会」というのはいつ頃、出来たものでしょう?
福田:「国防婦人会」というのがあり、私の記憶では、一番最初は永瀬(前市長)さんの御親戚の敏子さん、.岩田先生のおねえさんかしら、白の割烹着を着て、たすきをかけて、出征兵士を送ったり。
山岡:種の女性の団結グループですか。
福田:昭和17、8年だったかしらね。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):あのね、歴史的に言うとね、一番最初に、「愛国婦人会」というのができたの。それが最初に出来た時は、家庭の御婦人ではなく、芸者さんだとか、水商売の人だとか、そういう有閑の人たちが協力したんですよ。そのうちに、国策でもって、家庭の御婦人も参加しなさいということになったんです。ということで、「国防婦人会」ができたんです。
永瀬節子:そうそう、できたのよね。
永瀬洋治:第1部と2部に分かれたんです。第1部が、芸者さんたちで。第2部が家庭の奥さんだったんです。ひっくりがえしでしょう?二号さんのような人が第1で、本妻が第2なんです。
山岡:面白いですね。
永瀬洋治:で、年中けんかしていたんです。そして戦争が激化していって、終戦の時まで続いたんです。それで解散になったんです。その後、町内会が中心になって、普通の婦人会ができたんです。
山岡:「愛国婦人会」の目的はなんだったんですか。
福田:銃後の守りよ。戦争中だから。家庭を守るのよ。
永瀬洋治:どんどん招集されるから、それを送って行ったり、慰問をしたり。
福田:つまり留守を守るということよ、旦那様が行ってるから。
永瀬洋治:兵隊を送ったり、慰問袋を作って、みんなで詰めて‥‥‥男手がないから‥‥
福田:竹やりよ。
永瀬洋治:そう、馬鹿馬鹿しいんだけどさ。
福田:バケツリレーで、もし焼夷弾が落ちたりする時に、火を消すために、練習をした記憶があります。
山岡:それまであった、隣組では弱いから、国防婦人会を作ったわけですね。
福田:...........赤紙が来ますよね。
永瀬洋治:招集令状。
福田:そうするといついつまでに、何々の部隊に行かなければならない、となるとその人たちを駅まで送らなければならないわけです。そうすると出征兵士と書いた大きな旗をたてて、そのお家の前に立っているから、ああ、このうちは出征なさるんだなってわかるんですよね、そうするとその御近所の方達が出て、お茶をふるまったり、その町会の上の立場の人が、しっかりやって来てくださいよと、激励の言葉などが、かかりますよね、それから駅までゾロゾロ歩いて兵隊さんを送ったと、いうのを子供の時の記憶として残ってますよね。
永瀬洋治:配給制度だったでしょ、八百屋も魚屋の閉店してましたが、配給物資が届くと、男が分けるんではなくて、女が出てきて分けるわけです。そうするとあそこの家は、大きいの、少ないのってね、年中、がちゃがちゃもめ事があったわけです。
福田:主食のお米が入らないわけです。それで、代わりにさつまいもが入るんですけど、こんな(手で30cmくらいを表わす)に大きいわけです。「ガソリンイモ」って言いましたけど........
山岡:「ガソリンイモ」!?
福田:それが班長さんの家に届くんですよ。十軒分なら十軒分として。そうすると隣組の人がお手伝いで出て、だいたい目方を同じようにして十軒分にわけるわけです。その時、お金をとったかとらないかは私記憶にないんです。
永瀬洋治:とりましたよ、ちゃんと。.....ガソリンイモって話がありましたが、それはね、ガソリンを採る為に栽培されたまずいイモが。
福田:おいしくないの。格好だけさつまいもなんです。
山岡:それは戦後ですか?戦争終わる頃?
福田:それはね、戦後も21年か22年ごろまで続きました。
永瀬洋治:いやもうとにかく米の統制は昭和15年からあるの。
福田:お米が欲しくて、田舎の方に買いにいきますでしょ。それは違反なわけですよ。直接農家から買ってわからないようにしてリュックに詰めたり、いろいろ持ってくると警察の眼が光っていて、これは闇米ではないかと言われて、捕まったと言う話をよくありました。今考えると、私なんかもいただいたんですけど、ごはんは1合くらいであとはいっぱい水を増やして、......お粥までもいかないんです、下の方にお米があるだけだから、あとは大根や大根の葉を入れたりして、つまり、粗末な食事なんですが、それで何年の過ごしたという記憶があります。
永瀬洋治:配給制度の米は、初め2号5尺だったの。
山岡:1人に1日?
永瀬洋治:そう。それで2合5尺と言っておきながら、その次は2合1尺になったの。さらにね、悪くなったの。だからね、米を買わないで餓死した検事がいるわけです。昭和21年。ニュースになったんです。
山岡:聞いたことありますね。
永瀬洋治:あの検事は馬鹿だっていう声と、偉いと言う声があったんです。
山岡:川口はどうだったのでしょうか。みなさんは栄養失調だったりしましたか。
福田:でもね、今考えるとね、今より病人は少なかったですね。癌とかそう言う病気は聞かなかったです。
永瀬洋治:糖尿病ってのは一人もいませんよ。そのかわり、結核ですよ。栄養が足りないから。うちなんか結核で3人死にました。
山岡:御兄弟がですか?
永瀬洋治:兄弟と母親がね。
空襲の下〜もらったチョコの味
福田好子さん(以下敬称略):私はね、本町小学校を卒業したのね。それから川口の女学校行ったの。それから私はね、自分の希望としては洋裁をしたかったので、ドレメといったところに、願書を出していたのですが、学校の方で、軽い試験を受けて、小学校の先生になれっていうんですよ。それで、代用教員ですけど、4年くらいやったんです。18〜21年くらいまで、私は飯塚の小学校に勤めていたんです。今の第六小学校です。そこへやられたわけです。それでいきなり小学生を持たされるわけですよ。講習はいろいろ受けたりしましたが、オルガンやなんかは教わったわけではないので、自分で放課後残って、音符が読めるように、各々やったわけです。一番記憶に残っているのは、ちょうど終戦の20年の時に、空襲の時に警戒警報がなるんですが、あのB29が来る時ね、空襲警報の成る前ね、ちょうど教室にいた時で60人くらい子供がいたんですが、その子供達を各うちに送って行かなければならないんですね。空襲警報の来ないうちに、各方面に送って行くんです。その後帰ってきてからは、学校を守らなければならないんですが、学校の廊下は全部、防空壕が掘ってあるんです、そこに先生達は、空襲警報が解除になるまで、入っているわけです。そこにいるとたまに物凄い音がするんです。ある時は、あそこの赤羽の工兵隊に落ちた時なんか、本当に物凄い揺れで、自分達もやられてしまうんではないかという経験はいたしました。それから終戦になりまして、ほっとしまして、外へ歩き出ることができますよね、それで1回経験したのは、バリバリバリって、艦載機(かんさいき)ていうのが来て...........
山岡:カンサイキって何ですか。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):アメリカの空母から来ている戦闘機。
福田:もう終戦になっているのに、道路を歩いている人と、バリバリバリって。つまり、そちらには終戦はまだ知れ渡ってないらしく.......
山岡:え!本当ですか。
福田:怖くて道路の脇の防空壕に飛び込んだことがありました。終戦は知っているんでしょうけど、終戦が決定するまでに、日にちがかかったんでしょうね。私たちは、戦争が終わって良かったってことを考えていたんですね。私たちが受けた教育っていうのは、必ず日本は勝つよということだったのですよ。なんで勝つかっていうと、「神風」が吹くっていうんですよ。「神風」吹くってどう言うことかしらって思っていましたが、一方、日本は勝つはずないよって、ダメなんだよって言う人もいました。で、そっちになっちゃってんですけど。でも、もういつも着のみ着のままの生活でした。窓っていう窓には、ガラスが飛んではいけないために、ばってんのものが貼っちゃってあって、夜はもう真っ暗でしょ、本当に暗い生活でね、だから終戦だよっていうと、これで普通に外に出られて、普通に皆さんとお話ができて、怖い思いはこれで終わったというんで、あんなにほっとしたことはなかったですよね。古い話ですよね。
山岡:ほっとしたっていうのが実感ですかね。
福田:そうですね。
永瀬節子:なにせ真っ暗なんだから世の中。ほんとうにね〜。
福田:必ず空襲警報の鳴った後、大きい音でず〜っと鳴るのか、警戒警報ですよ。あれなんていうんでしょたっけ。あれ。
永瀬洋治:東部軍管区情報。大島から東京方面に向かって北上中なり。
山岡:ラジオで聞くんですね。
永瀬洋治:そう、ラジオを一日中かけておくの。そうすっとぶーーーってブザーが鳴るの、ラジオで。それで「東部軍管区情報」っていうと又来たなと、こんどはたいへんだぞとかね。
福田:霞が関方面って言ったかしら、通る道が決まっているのよね。
永瀬洋治:それを聞いて、今度は大変だなとか、たいしたことないなとか判断するの。
福田:それで外に出てみると、こんな小さくしか(手で10cmくらいを表わす)見えないんですよ。10000メートルっていうんですか。でも、空が澄んでいてよく見えるんです。それで、それを見ていると、下から、パンパンパンって高射砲撃ってるんだけど..........
永瀬:あたんないんだよ。
福田:めがけてるんだけど、それが下の方で、破裂しているの。あたりっこない。それで飛行機は上の方をゆうゆうと飛んで行くんですよ。(笑)
永瀬:でね、だんだん激化してくるとね、日本の戦闘機がそれを追っかけていくわけなんだけど、全然、歯牙にもかからないわけ。
女たち:そっ、だめなの、だめなの。
山岡:それは見てると、わかるわけですね。
永瀬:そう。それがね、ばちんと、体当たりするわけ。でも、こっちが落っこちてるの。あっちはね、そんなくらいどうってことないわけ。
山岡:では、みなさんは10代の後半頃にそれを見ていて、なんとなく、勝つわけないなって思っていたわけですね。
福田:だめだと思ったけど、日本は神風が吹くってずっと言われたんですよ。それでね、私は子供達にそう教えて嘘ついちゃったわけですよ。
山岡:福田さんは、戦後はいつまで先生をしておられたのですか。
福田:1、2年くらい。私の父は将校だったんですよ、永瀬市長さんのおとうさんの永瀬史朗さんと私の父は、少尉だったので、本町校(本町小学校)で、これから戦争にでる兵隊の指揮を取るとかで、何回か出て行った記憶があるんですが、父は体調を崩しまして、招集は来なかったんです。それで、終戦になったので、行く準備で日本刀を作ったり、いろいろやってましたが、終戦後の25年に亡くなったんです。まだ48歳でした。それで私も学校を退きまして、母の手伝いを。衣料品店ですから、しなければならなかったですから。そのころは物資がなかったんですね。ちょうど軍隊からいろんなものが来た訳ですね。配給所っていいましてね、各家庭に点数が配られたんです。たとえばシーツならシーツが何点だとか、満遍なく行くように、各市に配給所が出来て、私の家の第1配給所と言って、母が主になってやって、よその今は亡くなられた白根さんとか、2、3人の洋品店をやっていた家の人が家に手伝いにいらして、点数を持ってきて、今回はどこの何班には何点が配られるといったことをしたわけです。それで、終戦後何年かたっているうちに、東京の問屋街でぽつぽつぽつぽつ衣料品を売るお店が出来始まったですね。その時は、いろいろよく売れましたが、私も母もいっしょに、ほとんど焼け野が原でしたが、いろいろお店ができはじめたので、そこで今でも記憶にあるのは、あかちゃんのエプロンがよく売れたんですよ。
山岡:そうですか。
福田:今でも記憶があるんですが、まん中の布と左右に3つ(たてに)布が違うんです。まん中が白だと、左右は柄ものとか。手を通せるようになっていて、うしろで結わくんですが。これが1番先にでました。うちに持ってきて飾りますと、大変良く売れまして、そのうちにいろんなものがだんだん出始まって、ま、今日があるわけですが。たいへんでしたよね。
山岡:最初の配給の洋品はどんなものでしたか。
増田咲子さん(以下敬称略):さらしとかそういうものだね。
福田:うん、そう。もうなんにもないわけですよね、一般の方も。今までものを疎開して、疎開って言っても人間ばかりではなく、衣類も疎開して向うに行ってればそこに残っているかもしれないですが、赤ちゃんが生まれても全然売ってないですから、おむつひとつにしても、工夫して使ったわけです。浴衣の着物をくずしたり、という時代が続いたわけです。今は、紙だとか、白いきれいなさらしだとか使っていますけど、その時分はきれいなそういうものを使っている家はなくて、母親の浴衣をほどいて、ちょうどいいものを切って縫って、作っていました。それがみなさんの(うちの)洗濯物の中に、そういうおむつが干してあったですよね。
永瀬節子:浴衣でもあれば良かったのよね。
福田:それから、わたしの記憶だと、今池沢さんの住んでいる土手のところに焼夷弾が落ちたんです。そのとき私はうちにいたんです。本当はそういう風になると腕章をつけて、学校の職員として学校を守りに行かなければならないんですが、すぐそばに落ちたもんですから、元郷方面に逃げて行きました。空襲が解除になるまで。ある1軒のクラタさんというたまたまうちのお得意さんの家があったので、そこで納屋に連れて行ってくださって、大きな4斗樽にきゅうりが漬けてあるんですが、夏だから、ぬかみそ。それを10本くらい持って来て洗って、食べてちょうだいって、その味が忘れられないんです。とってもいい味だったので。ふふふふふふ。
山岡:おいしかったんですね。恐かったことと、食べたきゅうりの味の美味しさがつながるんですね。
福田:池沢さんのところに落ちたので、もう1丁目は焼けちゃうんではないかと。
山岡:でも、本町1丁目は焼けなかったですよね。
福田:そうなんです。それから3月10日、大空襲が浅草の方であったんですね。あの時は、昼間と同じ。反射があってね、外でも本が読めるくらいでした。すごい火事で、明るかったですね。それが終わったあくる日、今度は避難してくる人が荒川の橋を渡って、みんなそれこそ焼け出されて。
増田:わたしくしの実家もそう。9日の未明から10日にかけて、一番大変でした。焼夷弾で焼けて。空中で炸裂して、花火みたいなもんです、カランカランカランカランて音がして。その日、すごい風が強かったの。火が風を呼ぶでしょ。大きな道路を火がなめるように、火の海。すごかったですよ。その時、後楽園にいたの、その時B29が悪魔のように低空飛行で飛んでいるんです。
福田:終戦の時ね、うちは家財道具を大宮の先の加須ってとこに疎開したんです。父が養子だったのでね。そのころ、進駐軍ていうアメリカの兵隊さんがいっぱいはいってきちゃったの。で、わたしが加須へ行って、食事をしたり、のんびりして帰ってる時、たまたま、大宮で乗り換える時、進駐軍が1両に占領して乗っていて、日本人の車両は乗り切れないほどいっぱいだったの。そしたらね、私と2、3人女の人をね、アメリカの兵隊さんが連れに来て、そちらの車両にのせるっていうんですよ。怖いんですけど、のったんですよ。そしたら、両手にチョコレートをたくさんくれてね(笑)。そういう記憶がありますね。弟や親は日本人の車両にのっていたんですけどね。ひとりだったら怖かったけど、2、3人一緒だったから行ったんです。初めてチョコレートもらって、こんなにおいしいのかと思いましたよ。
山岡:もらっていやだという感じはないんですか。
福田:もうその時には、戦争は終わったんだなということと、それがすっかり身に着いた時ですね。負けちゃったんだからいつまでも敵だ敵だと思っていても、しょうがないし、色々物資のないときに、栄養の不足している時に、粉のミルクとか、そういうのやらをずいぶん支給してくださったんです。そういういわゆるものでつられたわけではないですけど、やはり困っている時にそういう物資やなにやらが来て下さると、心は自然とやわらいて、敵視する気持ちはだんだん薄らいてくるものだなと、いうふうに思いますね。
山岡:みなさん、そんな感じですか。
永瀬節子:結局なんたって、大事なことは食料だからね。そういうのもらえるっていうならね。直接もらうんではないから。配給になってくるから、安心して食べましたよね。ありがたいと思ってね。
鋳物屋の仕事〜本町通りのにぎわいとその後〜戦後の鋳物産業の変化
山岡:永瀬さんの鋳物工場は、たくさん人を使ってらっしゃったのですか。
永瀬節子さん(以下敬称略):戦争前は、第1、第2と工場があったの。飯塚にもあったの。だから相当いましたね。戦争になると、若い者をひっぱって行かれたから、もう飯塚はしめちゃって、こちらだけ。20人くらいかな。なにしろね、鋳物屋ってのは最低10人いないとできないの。「焚き屋さん」てのがいるでしょ。それから「栓とめ」。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):最初っから言うとね、「割屋」っていうのがいるの。昔はね、銑鉄の大きいのを、大きな金づちでもって、人力で割ったのよ。それを細かく割って「キューポラ」に詰めるわけよ。詰めるのを、「焚き屋」、あるいは「栓とめ」って言ったの。それにね、コークスとか燃料とかいろんな薬を入れてね、積み上げて、それからバーーッと火をつけて..........
福田:2000度だって言ったわね。
永瀬洋治:そしたら、湯になってきて............
福田好子さん(以下敬称略):それをとめるのを栓とめって言うのよ。
山岡:そのプロセス毎に、何屋さん、何屋さんてあるわけですね。で、10人必要なんですね。
永瀬洋治:そういう作業が、忙しいから、川口の人は動作が早いんです、言葉が早いんです。ぺぺぺぺぺぺぺぺってね。乱暴でね。(笑)
福田:火が吹いている中だからね。
永瀬節子:声も大きいからね。
永瀬洋治:飯食うのも早い。戦争みたいなもんだよね。それで最後に「仕上げ工」てのがあるんです。鉄のさめたのを、がらがらがらとやって仕上げるのよ。そういう専門職がいるわけ。
山岡:で、その「中子」のところだけ、女の人がやっていたんですか。
永瀬節子:そう。女の方はたいがい3人や4人いましたね。
山岡:いなければならない10人の中に女の人も入っているんですか。
永瀬節子:10人の他にです。
山岡:その人たちもどっかの主婦だったりして来てるんですか。
福田:そう。女の人は、ちいさいものをやっていたわよね。
永瀬洋治:「木型屋さん」と「鋳物屋さん」と「機械屋さん」。「機械屋さん」はきれいに磨く人ね。それが三身一体になって、作業していたわけ。
福田:高いところに上がって川口を見ると、ずっと煙っていてすごかったですよ。
永瀬節子:なんで川口は火事が多いんだろうってね。
福田:火事は毎日あったよね。
永瀬節子:火事でなくて、キューポラから出ている..........
福田:消防署が近かったでしょう........
永瀬節子:火事ではなくて、火事かと思うわけよ、初めて見た人は。
福田:それがまた、移るのよね............
山岡:火事のようにも見えるし、火事もあったってことですか。
参加者一同:(笑)
永瀬節子:火事があっても、慣れちゃってんのよ、いつも火を使っているから。それでもって、すぐ消しちゃうから。うちなんか年中ボヤが出てたよ。跳ねんのよ、それがどっかでくすぶってんでしょうね。大きな火事にはならなかったですね。
山岡:この本町、金山町は、鋳物工場も多いけれど、にぎやかな商店街でもあったんだそうですね。福田さんのような洋品店があったり。
福田:そう、にぎやかでした。鋳物屋さんは威勢がいいから、宵越しの金はもたねえってね、給料が入るとあくる日、ばかーっと買い物にいらっしゃるの。それで、この商店街はほんと商売のやりやすいところでしたね。盆や暮っていうと、家中の者のすっかり肌着から何から全部新しくするっていうのが、使っている若い人たちに買ってあげるとかね。
永瀬節子:そう、肌着から何からね、買ってあげるの。通いの人は別ですよ。もちろん、作業服は全員に出しますけどね。住んでいる若い衆には下着から全部。
福田:私なんかの記憶だと、もうこの道は、入れ違いができないほど、人が通ってましたんで。
地元の若い人:信じられない!!!
参加者:(ざわざわ)
福田:信じられないでしょ。今、見渡せちゃうけど、前はもう身体がぶつかっちゃうほど。風呂屋さんだって、4軒か5軒かあったし。この通りにくれば、たとえば亡くなれば御葬式やさんもあったし、なんでもそろったの。川口の、全部の場所から、ここに買い物に来てたの。川口の人ってのはね、性格が気持ちいいっていうのかな、宵越しの金を持たないってね、気っ風がいいんでしょうね。
増田:江戸っ子ね。
永瀬節子:そうかもしれないわね。
福田:飲むかもしれないけど、くよくよしているような感じではないのよね。
永瀬洋治:お風呂やさんが4軒もあったの。
永瀬節子:この狭いところによ。
永瀬洋治:みな職工さんだから、5軒長家とか10軒長家とか、みんな長家ですよ。そこに住んでてお風呂なんかないですから。
福田:「栓とめさん」てのは、そのキューポラのところに立っていて、湯を運ぶなり、出したりするからね、あれは何工場の「栓とめさん」だよね、って話したりしたもんです。
山岡:「栓とめさん」って、大事な仕事なんですね。一番熱いから、一番汗かいて、よくお風呂やさんに行くっていう話ですか。
永瀬節子:中に煉瓦はったり大変なんですよ。中が傷むから。だから2人は必要なんです。
山岡:で、どうなんでしょう、いつ頃から人があまり通らなくなったんでしょう。なんてことを聞いていいのかわかりませんけど。
参加者一同(笑)
福田:まず、役所が移っちゃったというのが、第1に大きな原因でしょうね。本町小学校の隣にあったんです。
永瀬洋治:錫杖寺の裏ね。それは町役場だったの。それが、栄町公民館のところに移った。それでもね、昭和35、6年に吉永小百合の『キューポラのある町』という映画があったんだけど、あのころは600軒くらいあったんです。
参加者のひとり:今、何軒なんですか。
永瀬洋治:今は100軒わっちゃったね。
福田:1丁目に1軒、金山町に1軒くらいでしょ。
山岡:主に、軍事関係で栄えたんですか?
永瀬洋治:そう、軍事関係の仕事をやったんだけど、終戦後なくなったの、たいへんだなって言っていたら、こんど朝鮮戦争がおきたでしょ、朝鮮戦争でまた需要がぶわって増えた訳です。その後は、自動車とか船のエンジンとかの大型の機械だったわけ。江戸時代は茶釜だとか釣り鐘だとかね、身近のものだったんだけど、それよりも1tいくらっていうね、大型船舶のエンジンとか、そういう高いものに、川口の産業は移行していったわけ。あまりもうからないような鉄瓶とかは南部に行ったり、富山に行ったりね、産業が変わってきちゃったの。
山岡:その大きなものをしなくなって、鉄瓶に戻るってわけにはいかなかったんですか。
永瀬洋治:中厚長大でなくてさ、短小軽薄ていってさ、軽いセラミックのような機械とか、ジュラルミンだとか、そういう軽いものに、産業が変わってきたでしょ、だから、川口鋳物を使わないで、という形に変わってきたわけ。構造不況と言うことが起きてきたのよ。
山岡:明治の殖産興業の時に、川口の鋳物業をバックアップするために、国からお金が出たりしたことはあったんですか。
永瀬洋治:そりゃー、奨励はされたけれど、お金が直接出るよりも、民間の起業力が強かったんだね。この近くに、「永瀬鉄工所」って古い鋳物工場があったんだけどね、「やげんや」って呼ばれててね、薬研を作ってたのよ。でも、薬研なんかじゃ儲からないから、その永瀬昌吉さんてのはロシアに行って、ロシアから軍艦のエンジンの注文をもらったりね、「やげん」からね、大型な長大なものを扱うようになったのを、みんなまねして、どんどんどんどん機械物に変わっていっちゃったの。日用品の茶釜だとかは、繊細で、塗りだとか、ぶつぶつぶつぶつ出すとか、そういう繊細な技術がだんだん衰微してっちゃったの。
山岡:ええ、技が要りますもんね。
永瀬洋治:そのかわり、川口はお金がばかばか入ってきたの。波に乗り過ぎちゃったの。
山岡:朝鮮戦争の終わった後というのは、ここから去って行く人も多かったわけですか。
永瀬洋治:その後も続いたんだけどね。決定的に悪くなったのは、昭和40年から50年代にかけてから変わっていったかな。それとね、労働倒産っていって、労働力がね..........これは3K業のひとつなんですね。きたない、きつい、できらわれてね、本当に砂をかぶってやるから、若い労働力がね、昔は子供がやったんだけどね、一時は沖縄から連れて来たり、北海道から連れて来たり(したんだけど)、みんなそんな子供でも低賃金で逃げちゃうです。それで、深刻な労働問題がおきてね、なり手がない、ていうこと。所得倍増で、どんどん他の仕事の月給が上がっていくということ。それと、今の通信機械とか産業構造が変わってきてるからね。それから、昔の川口の人は、50才ぐらいになるとがに股で歩いてたの。腰がまがってね。
福田:職業病ね。
永瀬洋治:それで自分の親爺のからだ見て、あんなになりたくないって思う訳よ。工場環境を良くしようっというので、最近ではいろいろ工夫して熱帯魚が泳いでいるような、そういうものをわれわれはずいぶん奨励したのよ。砂を踏んでいるのではなくて、それが下に落ちていくように、科学的な構造の工場をずい分作ってやらせたんです。それでもね、採算があわないんだよね。いろいろな手段を講じたんだけど、やっぱり消えて行く物は消えていく。
女性の楽しみ
山岡:今日は女性の方が主役なのでお伺いしたいのですが、昭和30〜40年代にはもうどこのうちにも冷蔵庫などの三種の神器がそろっていたと思いますが、そのように家事の変化があり、女性に自由な時間ができてくると、趣味を始めたりとか変化があったと思いますが、それはどうでしょう。
永瀬節子さん(以下敬称略):今のおかあさんは、時間ができたら、パートに行ったりね。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):昔はね、さしすせそって言って、掃除や選択が忙しかったけど、今はね、かきくけこになったよね。
山岡:どう言う意味ですか。
永瀬洋治:「語る」とかさ、口先ばっかりになったからさ。女性の地位は非常に向上したよね。それにレジャーができて。だいだい今、女性っていうとさ、年中旅行行ってるよ。くだらない旅行行ってるから、いい加減にしやがれって言いたいよね。
参加者一同:ははははは(笑)。
永瀬洋治:今度の3月なんか、ハワイにさ何百人と行くんだってさ。
山岡:どうですか、増田さんは。最近の便利な暮らしの方がいいですか。
増田:そうですね。洗濯だって昔はたらいで、洗濯板でやってましたからね。
永瀬節子:今はさ、ボタンひとつでできるじゃない?昔あんた、釜を薪で焚いていたわけでしょ。洗濯だってほおりこんだらできちゃうじゃない。
福田好子(以下敬称略):どこ押したらいいのかわかんなかったりしてね。
皆:(笑)
永瀬節子:ずっと楽ですよ。
山岡:楽しくなりました? 洗濯も手で洗い、御飯焚くのも大変だったころの、女性の楽しみはなんだったでしょう。
福田:結局お祭りだとか、楽しみでしょうね。旅行行くってのはなかったわね。行くのはこのごろよね。
永瀬節子:行ってらんないもん。
福田:それと今の人は子ども生まないけど、昔は7人だ8人だって兄弟多いから。
永瀬節子:旅行なんて行ってらんない。
山岡:遊びって旅行に限るんですか。(笑)
永瀬節子:人が集まって御馳走作ったり、それから「初馬(はつうま)」。みんなが来たりしてしゃべることができるから。井戸端会議ってよく言うけど。
福田:井戸端会議もなかったよね。
山岡:そんなに暇がないんですか。東京にお買い物に行ったりしなかったんですか。
永瀬節子:そりゃね、おつかいもの時には。この辺ではないから。
中村ひさ子さん(以下敬称略):お買い物大好きでした。でも、もう行かれないですよ。
山岡:たとえば、ファッションなんかはどうですか。戦争直後はそうはいかないけれど、昭和30年代などは?洋品店ではどうでしたか?
福田:若い方は東京に買いに行かれましたけど、うちの店は川口向けに中年の方向け。わりに変化がないでしょう?年輩の方はそれに追い付いて行けませんから、昔ながらの形であって、色合いが違うとか。それを主眼に家の店はしていましたようですね。本当のおしゃれは若い方なんで、東京のデパートに流れますから。川口では、日常の健全な物を売るようにしないと。
永瀬節子:川口だからね。
福田:東京のトップのものに川口がついていけるというわけではないです。 永瀬節子:今ならね、ママだパパだ、おかあさんだのおとうさんだの言っているけど、昔はそうじゃないもん。今は社長でしょ。でも、いくら大会社でも親方だもん。おかみさん。
永瀬洋治:職人はさ、おっかあだとかさ、かあちゃんだとかさ。
永瀬節子:そうよ。かあちゃんだらいいほうだよね。カーヤンだもの。銀行に行くんだっても、地下足袋だもの。むかしだっても親方金いっぱい持ってくたって、地下足袋だもの。今は靴はいたりするけど。
山岡:女性は?
永瀬節子:下駄だね。
山岡ところで、映画など見たりしました?
福田:私はあまり映画を見たって記憶がないの。というのはね、昔っからの教育だかなんだか知りませんけど、うちの母親なんかは、映画を見に行くのは不良だと言うんですよ。内容が分からないでも、夜だら、夜、夕方だらね、映画を見に行くことが、不良が見に行くんだって言うのが、ちょこっと耳に残っているので、あんまり見なかったですね。
山岡:永瀬さんも見なかったですか。
永瀬節子:うちも見ないです。学校行ってる時だって、うっかり見るとおこられちゃうからね。こっち来てからだって、嫁さんが映画見に行くますなんてわけにいかないもの。
山岡:そうですね。
福田:昔っからね、お嫁に行ったら、そこのうちのあれで働かなきゃならにのよね。
朝比奈ルイさん(以下敬称略):働く一方だったよね。なんの楽しみなんてね。
おかみさん皆:ねー。
永瀬節子:昔は姑に仕えろ、今は嫁さんに仕えろっていうの。今我々は。
皆:(笑)
永瀬節子:本当なのよこれは。笑うことじゃないのよ。
皆:(爆笑)
永瀬節子:うちの嫁はね、そうでないけどね、そう言うんだよ。
朝比奈:姑はいばってられないもんね。
永瀬節子:らんない、らんない。出ていけっていわれちゃうもん。昔は嫁さん一人で出て行くけど、今は家族みんなで出ていっちゃう。みんな笑ってるけど、ほんとうなんだよ。昔は嫁さん出てったって聞くよ。そして、仲人さんとかが迎えにいくって。今はさ、だんなから子どもから連れて出てっちゃうじゃない。
山岡:さみしくなっちゃう。
永瀬節子:じゃなくて、困るじゃない。
皆:(大笑)
永瀬節子:だったらさ、ちったあ、大人しくしているほうが利口じゃない。全部やってくれるし。そういうのずるかしこくなってくるの。(にこにこ)
銀バスの話〜その火事〜ドクトルメジャーニ
山岡:今日は、若い女性たちが来ています。何か聞いてみたいことはありますか。
20代女性:私は建築などを学んで来ましたが、この本一通りを見ると、いいものが、古い蔵などが残っていますが、それは電車の経路からはずれたおかげなのかなと。JRの路線は戦中からあったのですか?
福田好子さん(以下敬称略):国鉄ができる前には、芝川や荒川を通って、舟が鋳物の材料だとか砂だとかを運んだって話を聞いてますよ。川を利用したわけね。この本町通りもバスが通ってね、この狭いところを、バスが2台行き違ってたのよ。そのバスガイドになった人いるよね。今のワゴン車くらいでしょ。この通りに、バス停が二つくらいあったわよね。
山岡:ははははは(笑)。すぐ止まらなきゃいけないんですね。
永瀬節子さん(以下敬称略):そこの肉屋さんところに一つ。そう、鍋屋前。それから...........
福田:あの広小路でぐるってまわって、鳩ヶ谷へ行ったのよね。(あのバスは)輸入品だったでしょ。
永瀬節子:銀バスって言ったわよね。
福田:ええ。赤羽の橋も渡って。ちよちゃんがバスガイドやったのよね。こうういう鞄を前に下げて、キップ切ってね。
山岡:それもバスガイドって言うんですか。
福田:そうよ.。
土田裕さん(以下敬称略):その前の昔はね、馬車が川口駅のところから来て、広小路のところに止まって、本町を通って、そこの「門扉の橋」を渡って、そして千住へ行ってました。肩を骨折すると川口では直すところがないんです。そのためにね、みんな、わたしのうちの前に赤い旗を立てると馬車が止まって、それでトテトテとラッパを吹きながら本一通りをずうっと来て、それで岩田先生のところの角から曲がったんです。そして、ワシントンに送った桜があった、その熊谷道という土手を通って、そしてずうっと西新井まで行ってそして、千住の「ナグラ」っていう有名なほねつぎに行くことができました。私もひっくり返って、肩をはずした時、行きましたけど、馬車に乗って行ったんです。そのあと、銀バスってのができて、わたしのうちの前に銀バスの事務所が出来ました。ある時、ガソリンの入ってるドラム缶から、ハンドルでもってガソリンをバスに入れていたところに、運転手が煙草を吸ってて、ぽいと捨てちゃって、そのドラム缶のところにおっこっちゃって...........。
皆:わーーーーーーつ、それは................(騒然)
土田:私のうちのすぐ前に、昔シンキヤっていうおもちゃ屋があって、あの向うの、桃林堂って薬屋さんの持ち家だった、二階建ての三軒の新しいうちを、みんな燃しちゃって。それは私がちょうど小学校の2年の時で、ちょうど遠足で出かけていて、今ダイエーのある、マスキンさんて土手を上がって行ったところで後ろを向いたら、ぼっぽっと黒い煙りが見えました。今言ったようにガソリンのドラム缶に火がついちゃった。それがまた、悪いことにひっくりかえしちゃったから、道路にまで流れちゃって、火の海になっちゃってね。桃林堂さんところには、八百屋お七がじゃんじゃんじゃんと叩いた(という)、上に屋根があって半鐘っていうがぶら下がっていて、かなづちがぶら下がっている火の見やぐらが、あの広小路のところに、昭和2年ごろはあったんです。でも、川口はね、鋳物師とかね、焚き屋とか、ズク割りとか、みんなそんな風な人たちだったから、火をちっとも恐れない。
山岡:火が怖くない..............
土田:湯を入れてる時に、火花が散って、火花が自分の足の上に落ちて、じくじくじくじく足の上で、焼けどになるのを、払うことができないで、みんなやるから、ちっとも怖くないんです。飛び跳ねた火がみんな眼に入ってね、眼がつぶれちゃって。つぶれちゃったんでなくて、見えなくなっちゃう。
福田:やけどの専門医の平野さんていたわね。
土田:あの方はね、昔、ドクトルメジャーネって言っわれてました。その人はBMWってドイツのバイクに乗っていたんでね。
山岡:ドクトルメジャーネって平野先生のあだなですか。
土田:平野先生はね、日本の学校を出てから、留学したの。公会堂の前のところにそこに八角の診療室を立てて。
山岡:おしゃれですね..............
土田:ハイカラね先生でね。そう言う風な先生がいました、本町には。
日光御成街道と錫杖寺・善光寺〜川口の食と健康
参加者(別の20代女性):御成街道って、私の東川口の家のすぐ近くを通っているんです。ここからつながっているんですね。
土田裕さん(以下敬称略):昔は、将軍様が、通った道を御成街道と言ったんです。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):将軍様はここ通って、岩槻で泊まって、さらにもう1箇所泊まって、3日目に日光に着いたんだね。それで、将軍はだいだい19回くらい行ってるんですよ、江戸時代250年の間に。
山岡:少ないですね。
永瀬洋治:家光から8代将軍吉宗あたりまでは、けっこうよく行ったんだけれど、幕末になるとね、そんなばかばかしいことはできないんですよ。力がなくなっちゃったからね。それでね、いい時にはね、16万人が歩いたって言うんですよ。それはどういうことかって言うと、ようするに、江戸城を七ツに出て、それで先頭が出たんだけれど、そのケツが出るのが、夜の7時なんです。
皆:ほーーー。
永瀬洋治:「先触れ」っていうのがあって、将軍がいつお通りになるかというのを、下っ端の大名かなんかが、全部手配して、将軍が通る道は幕張って見せないわけです。汚い便所は壊しちゃうとか。路上にへんなやつがいてはいけないから、怪しいやつとか、気の狂っているやつは出さないようにしたわけ。そういうことまでやったの。それで30何万という馬を全部、「助郷(すけごう)」という制度があって、近隣近在で馬を調達するわけです。人夫とかね。それで将軍が一番盛んな時期に16万人。大名行列ってあるでしょ。あれは多くって、鹿児島あたりのお大名でもせいぜい、2、3千人なんですね。将軍のは、破格にすごいの。それがここ通ったわけ。
土田:永瀬さんのうちでもって、人足やらを用意したんですね。
永瀬洋治:うちは問屋だったから。侍は本陣というところに泊まるんです。一般の人は旅籠です。本陣てのは民間なんですね。将軍が錫杖寺に来て昼食を食べて、それでまたすぐ出て行ったんです。
福田:それで錫杖寺は葵の御紋なの?
永瀬洋治:そうそうそう。
土田:錫杖寺には最後の奥女中の瀧山さんが入っているんです。
福田:瀧山のことね。瀧山の墓があるんです。
永瀬洋治:一里塚てのがあって、それを目安にしてね、歩いてきたんです。
山岡:たまにしか、19回しかお成りがなくて、それでは本陣は普段は別の商売やってるんですか。
永瀬洋治:そうそう、普段は鋳物屋やってて。鋳物師ってのは、京都で公家が権利を持っているので、勝手に鋳物師は開業できなかったの。それには、京都に冥加金というのを納めて、それを京都の公家が食い物にしていたのよ。ギルトっていう、イギリスで発達した、座ですよね、そういうふうな制度があったんです。ようするに中世のころから。
山岡:錫杖寺はいつできたんですか。
土田:ええと、今から700年くらい前ですかね。
永瀬洋治:錫杖寺てのはね、十石の朱印をいただいたんです。幕府からね。ところがね、実相寺というお寺があるんです。実相寺は法華経のお寺なんですが、三十石なんです。なんでそんなにもらったかと言うと、たまたま将軍はこの辺によく鷹狩りに来てたんです。ちょうどこの上あたりが、バードエリアなんです。渡り鳥が通るところなんです。だから将軍が鷹狩りに来ていて、ちょうどお腹痛くなって、実相寺に寄り込んで、直ったというので、それで有難うと言って..........。それから、善光寺というのは信者寺だったんです。ようするに檀家がいないの。2つのお寺がかわりばんこに守をしているんです。長野に善光寺がありますが、長野善光寺にはなかなか行けないから、江戸を出て、武蔵の善光寺にお参りすると、同じような御利益が与えられると。善光寺は、とても盛ったんですよ。開帳の時に何万人と来て、それが渡し舟だったんですが、その渡し舟がひっくり返って、その当時、何千と死んだことがあるんです。とにかく、毎年そんなことがあっても、にぎわっていたんです。もちろん、その頃、坊さんてのは所帯を持てなかったんです。でも、この頃はみんな奥さんもらっちゃうから、欲ばっかりでちゃって。だから宗教がおかしくなっちゃうの。今は日本が一番宗教がすたれちゃってるの。宗教改革しなくっちゃ。ルーテルじゃないけど。
参加者(30代女性):さっき電化製品の話が出ましたけど、料理で、今は作らないけど手間がかかっておいしかった料理は、川口にはありますでしょうか。
永瀬洋治さん:昔は、お彼岸などには親戚が、うちあたりだとお重に五目だとかおはぎだとか、それぞれ作って持ってくるんだよね。でもさ、もらってもあまりうまくないんだよね。
皆:(笑)
山岡:何か名物はないんですか。
地元の人のひとり:本一通りにあった和菓子屋さんがおいしかったって聞きますよね。
福田好子さん:田口屋さん。
永瀬洋治:和菓子は高いからね。
福田:仏(ブツ、仏事のこと)があると、仏の券みたいのをくださるんですよ。たとえば、御霊前を持っていきますよね、そうすると田口屋さんなら田口屋さんの、いわゆる金券と同じですよね。それをいただくので、どうしてもそれを持ってお菓子をいただくと。そういうこと随分ありましたね。
永瀬洋治:葬式まんじゅうていってね、こんなにでっかい(おおきな小判型の手つき)ので、たいしてうまくないんだけどね。
地元の人のひとり:葉っぱの形のですね。
永瀬洋治:ショートケーキなんて全然売ってなかったよね。
山岡:そういえば、おそば屋さんが塩っぱい味だと聞きましたが。
永瀬洋治:労働しているからね。
福田:「フキ」を吹いている時は、塩をなめながらってよく言ってましたよね。汗かくから。
永瀬節子さん:だからね、冷たい氷水のところに、塩を必ずおいてあるんですよ。うんと汗びっしょりになっちゃうから。
山岡:汗をかいて働く人は必要で塩分が多めになってくるでしょうが、そうでない奥さんたちも塩分を多めにとることになっちゃうんでしょうか。普段の食事のお味噌汁などが、他より塩っぱくなるとか.............
永瀬節子:.......(職人さんたちの分は)濃いめにするけど、私らはそうはしないの。
福田:でも、割合川口のものは味が濃いっていいますよね。
永瀬節子:うん、一般からすれば濃い。いっしょに食べてりゃね。
福田:それだけ労働してるってことでしょうね。
永瀬洋治:労働災害ってのがあるんですよ。「機械屋さん」は旋盤なんかで、だーーってやっちゃうでしょ(指が切れるといった動作)。手切っちゃったりね。それからクレーンが落っこちてきてね、潰されちゃったりね、けっこう工場で災害があったんですよ。
山岡:男性の方は平均寿命が短いってことはあるんでしょうかね。
永瀬節子:(福田さんと眼を合わせながら)うーーん、あるでしょうね、やっぱり。短いと思うよ。労働もいいとこよ。今でこそ、電気があったりするでしょ。でも、全部手でするんだもの。
福田:終わってから一杯やるのが楽しみなんだよね。じゃないと、疲れがとれないでしょ。
山岡:それで命けずっているのかもしれませんけどね。
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