第1回「芸術家の視線」

日時:2004年1月31日 午後2時より4時まで
場所:川口市本町一丁目 浜田邸 蔵にて

[話し手]

岩田健さん(彫刻家/大正12年生まれ)

土田裕さん(写真家/大正10年生まれ)


[参加話者]

永瀬洋治さん(前市長)


司会進行 :山岡佐紀子

写真:長沼宏昌

目次

●善光寺火災〜夜店の話〜子供の小遣い稼ぎ〜ヨイトマケ
●お風呂屋さん〜吹き井戸〜鋳物工場の労働争議
●馬糞(まぐそ)の話と馬占(ばせん)の話〜沼と埋め立て、汚穢の話〜ツェッペリン号の話
●川口言葉




善光寺火災〜夜店の話〜子供の小遣い稼ぎ〜ヨイトマケ
山岡:岩田先生と土田さんは大正のお生まれですね。お小さいころのことをお話していただけますか。
土田裕さん(以下敬称略):昭和43年に善光寺が焼けたのはとても残念なことです。私は当時、餃子屋と麻雀屋を駅の前でやってました。その麻雀屋が夜中の3時頃終わって、おかあさん(妻)と帰るところでした。がたがたの自動車で善光寺新道を来たら、なんだか真っ赤だよとっつうんで、そばまで行ったら、もう。消防車まだ来てなかったのですけど、ぼうぼう燃えてるんで、そりゃ大変だと。それで、フィルムと三脚持って飛んでったんです。夢中で写真を撮りましたけど、もうシ(火)の粉を浴びちゃって本当にすごかったです。でもね、せっかく‥‥私たちは子供の時から、年中、お盆とかなんとかお祭りがあれば、いつもこの土手まで来ていたんです。夜店がずら〜〜と並んで、近隣近在のお百姓さんや職人のひとたちがみんな善光寺さんお参りするんで、もうサーカスは出る、何は出るで、この善光寺さんの広い境内の中にいろんな見せ物小屋なんかいっぱい出るんですんですね。それが楽しみで、8月とお祭りに時は、みなさん来たんです。このそばに、私の同級生がお百姓さんやってて、その仁王門の前に住んでいたんです。その当時、その門のところから大橋まで畑やたんぼがいっぱいあって、本当にのどかだったのですね。今の、南中(南中学校)のところ。
岩田健さん(以下敬称略):川口の善光寺と甲府の善光寺と長野の善光寺についで日本の三大善光寺と言われてまして、定尊(じょうそん)という坊主が十二世紀にそこに阿弥陀堂を立てたのが始まりです。善光寺阿弥陀っていうのは面白い阿弥陀で、立っている阿弥陀さんの両側の薬師さんと勢至さんがこういう格好(両手を胸の前で指の第二関節をあわせてつなぐような形。右手が上からかぶさり、左手が下から支えるような形)なんですね。普通はこんな感じ(右手をたてる。手のひらを外向き。いわゆる施無印)してるんですが、ちょっと珍しいんです。本尊と観音様が焼けてしまいまして、勢至様だけ残っています。おそらくお彼岸の火の不始末だろうということですけど、400年くらい経った県の指定の文化財を焼いちゃって誰も責任とらないんで。残念ですね。いまやどろどろの跡目相続をしてましてね。だから‥‥今は、私死にたくないんです。(ちょっと肩をすくめてからだをひねる。※岩田家代々の墓がそこにある)
土田:桃林堂さん(薬局)の横から入って、錫杖寺に行く道で、ニ七といって2と7のつく日に縁日が出るんのです。
地元の方々:うんうん(のってくる。)
土田:そうするとね、香具師の方が、いろいろ古いもんだの、フライだの.......なんだのかんだのとね、夜店がぐわーっと出て、小学校の前からずっと出ててね。今度は五・十(ごとう)てのが...........川口のちょっと先に行った、川口劇場から横町、裏町をずっと通って、夜店が出るんです。そうすると、近隣近在のお百姓さんや職人さんがみーんな来るんです。夜店っていやあ、古物だのなんだのいかがわしいものが売っていたんです。
皆さん:ふふふ(わさわさ私語を喋り出す。)
土田:それから、行商の人、このすぐ裏に住んでた「テラカン」って名て、今の私と同じように頭の禿げ頭の背のおっきい人が、荷車引いて、今のお好み焼き、あれの元祖を作ってました。大きな鉄板を車の中に入れて、うどん粉といて、海老だのイカだのねぎだの肉だのをばらばらのせて、焼いてお好み焼きにして、それが1枚が1銭か2銭。新聞紙を切った四角いところに上にそれをのせてくれて、それからソースをビーーッと(ぐるぐる螺旋を描く)塗ってくれて、それでみんな喜んで、子供らは食べたりなんかしたんです。そういうふうな夜店屋さんがいっぱい。フライってのは、今では行田で流行っている(?)フライみたいな、コロッケの、ああうふうなまぁるいやつに串さしてやって、それを油の中にドボンと入れてやって、ビーーッて焼いて、それをソースの中にビチャッと入れてやって、はい、ってくれる。それが1銭。そういうふうに昔の子供は、何かっていうと、1銭1銭って言ってまして、1銭がもうたいへんな貴重なお金でした。
皆さん:ふーーーむ。
土田:その1銭を子供らは稼ぐためにね、鉄くずを拾って売っていました。鋳物屋さんが「フキ」を吹くと、その後「ノロ」ってのが出ます。「ノロ」てのは鋳物の鉄を抜いちゃった後の、「コークス」やら「ノロイシ」やらのカスのことです。錫杖寺の前に、辻井さんていう工場があって、今は大きい辻井工場になっちゃいましたけど、当時の辻井さんちは、軒がひっちゃきちゃって、天井から年中星でもなんでも見えちゃうような、そういうふうなところだたんですが、そこで、べい独楽を作ってたんです。そこで「ノロ」が出るので、わたしたちは缶詰めの空き缶をぶら下げて、とんかちと、鎹(かすがい)を持ってそこへ行って、その「ノロ」をひっぱたたき、その中からちっちゃい鉄のかたまりを拾って、それを空き缶の中に入れて、それでもって一貫目がだいたい四銭から五銭で売れたんです。それが子供の、早く言えば現金収入でして。
皆さん:ふーーむーー。
土田:その当時(昭和の始め)、川口は不景気でもって労働組合の争議やらなんやらで、おとうちゃん遊んじゃって仕事がないので、かあちゃんが「エンヤコラ」行かなくちゃ食えないなんつうんで、鋳物やさんのおかあちゃんが子供しっちょって(背負って)働きに出ていました。お金儲けした家が、いい家建てる時は、川口ってのは昔から地盤がゆるいもんですから、そこに杭打たないとうちが傾いちゃうんで、みんなで「エンヤコラ」をしたものでした。やぐら建てて、その上に棒建てて、それは長さが一間半くらいの杉のカンパツ材みたいなのですが、その先をとがらかして、それを土にえれて(入れて)、その上に鉄板置いてその上に、大きい鉄の固まりをのせて、その先に糸を十本くらいつけて、それで「エンヤーコーラ」(ちょっと唄いながら)って‥‥‥
永瀬洋治さん(以下敬称略):そりゃ、ヨイトマケだね。
土田:いろんなおもしれい(面白い)ことを言いながら、それでぐーーっつとひっぱって、それからばっとはなすと上の方へ上がった鉄がどか〜んと落ちて、その勢いでもって、置いといた鉄がどんどんどんどん沈んで、それで地べたの地盤を造る訳です。で、そういうことをやって1日20銭とか30銭とかいう手間をもらっていました。それにとうちゃんが1日働いても、1円50銭か2円くらいっきゃならなかった。子供がもう、4人も5人も、みなさんいっぱい子供さんがいましたからね。だから、わたしたち子供はどっちかっていうとお金を親からもらうより、自分でなんとかしなくっちゃねって‥‥
山岡:へー、なるほど。
土田:だからさっきの小遣い稼ぎの話の続きなんですが、「ベイ独楽」の内職をしているおばさんのうちで、手伝ったりしました。「ベイ」ってのは、要するに貝のさざえみたいなものを「ベイ」って言ったからで、その上が、渦巻きになっているんです。それに赤いペンキだの青いペンキを、おばさんがくっくっくっくっと塗るのを(見ていると)、坊やおいでって言うから行くと、ここに並べてくれって言うから、子供達はべい独楽いっぱい入っている籠から、1つずつ並べたりして手伝いました。そして帰りに1銭もらったりしたんです。お金持ちのうちの子はみなさんそんなことはしませんけれど。
 だいたい錫杖寺のあたりは、河岸に上がった荷物を担ぐ人足さんとか、舟を漕いでくる船頭さんとかの、裏長屋っていって、ひっちゃげったような長屋がたくさんあって、住んでいました。そういうところに、鋳物屋さんのおやじさんらも住んでいて、みんな裸でもって、ふんどし一つでもって町中あるってました。だから、もう川口なんてのは、野蛮なぬし(?)じゃないかと、思われたような、そういった時代もあったわけですね。川口を夜通るっていうと、ぼうぼうぼうぼうぼうぼう、まるで川口は火事じゃないかって、言われるくらいに、あちこちに「甑(こしき)」の火が出ていました。昔のやつは「キューポラ」でないから、シ(火)をばんばんと吹くんですよね、それがちゃんとした屋根でもかかってればいいけれど、もう屋根が焼かれちゃって、穴だらけになっちゃったもんですから、周りからシ(火)の粉がばーばー出たんです。で、知らない人は汽車に乗って川口の駅に来ると、川口の町は火事だらけだよと言うって、聞きましたけどね。
岩田:ちょっとそこまで。土田さんに、補足させていただきます。夜店が、その錫杖寺の前から、本町校の前を通っていたってことですが、そのころの夜店はアセチレンランプで、電気がありませんから、カーバイト、あのにおいがぷんぷんしました。夜店っていうとカーバイトのにおい、でした。その次は、「エンヤコラ」。昭和3年、新荒川大橋はみんな「エンヤコラ」でやったのです。土をかためるのに10人くらいのおばさんが、即興の唄とおっしゃいましたが、「がっこの生徒がオーライ、ォイッチニ(1、2)でわかれてオーライ、よらまーたそら(綱をぐるぐるひっぱる手つき)どっこい」で、手をはなすとポンと.....。
皆さん:へーーーーー。ふふふふ。(楽しそう)
岩田:「うちのとーちゃんはオーライ、ものがわかんねーでオーライ、そらまーたそらーどっこいぼん」
参加者の1人:女性の仕事なんですか? 男がやるんじゃなくて。
岩田:そう。
土田:「なりたでまってろエンヤーコーラ、ほらおっぱいやるぞー」なんてね。自分の子を、脇の籠の中に入れておいて、それでもってえんやこーらをしたんです。
岩田:なんでも、即興で唄っちゃいますからね。






お風呂屋さん〜吹き井戸〜鋳物工場の労働争議〜道の掃除

土田裕さん(以下敬称略):その当時(大正末から昭和初期)の川口ってのはお風呂屋さんが多くってね、どこのお風呂屋さんに行っても、こんな(かかえる手つき)「吹き井戸」があって、そこの「亀の湯」さん、あそこなんか私は生まれたころから入ってたんです。男湯の脇にこんなでっかい、箍(たが)をつっこんだ樽があって、そのまん中に棒があって、そっからボーボーと水が出てました。その水が樋を伝わってずーっと女湯まで行って、それから曲がって、女湯と男湯のまんなかに桶があって、そこへジャージャージャージャーはいっていく。それで、風呂の湯が熱いと、その水の通っているところにある扉をあけて、じゃーーっとお水が出しました。そいで、また、しめて。そういうふうにしていました。水道がないから。そんな風にね、そこには手桶がくっついていて、水をしゃくったり、お湯をしゃくったり、自分の桶に入れて、洗ったもんなんです。
永瀬洋治さん(前市長、以下敬称略):ちょっと補足しましょう。川口は地下水がとても豊富なところでした。あちこちで、水が吹き出て「吹き井戸」ができていました。大きな工場なんかはほとんど自分の「吹き井戸」を持っているんです。ところが、大きなビール会社(サッポロビール(株)川口工場)が大正の終わりにできたので、水位がぐっと下がってしまいました。そこはガチャコンポンプで水をとっていました。そのポンプを掘るっていうのは、今のようにダダダダダダッと掘るんではなく、それこそアイヤーアイヤーとやっぱり職人がですね、でっかい歯車みたいな竹でできたもので、ウッシュウッシュと掘ったんです。
土田:遠州掘りとか言うんですよね。弓みたいな竹の棒でね、掘ったんですよね。
永瀬:それで、そのビール会社に関連して、労働組合の話をしたいと思います。川口の昭和の始めの労働史というのは全国的に有名でして。たくさんの鋳物工場がですね、欧州大戦の後不景気になって、しかも関東大震災で、さらに追い討ちをくらっちゃったんです。工場はですね、まだ工場主と言ってまだ会社ではなくて、みんな工場のおやじさんがやっていて、それでとにかくやって行けなくなったからと言って、従業員をクビにしたんですね。そのころ、すでに東京の方で「友愛会」という、今でいう「社会党」の前身ですね、そこで労働組合の活動が盛んになってきたんです。その労働組合の川口の一番の発端になる出来事が大正のおわりに、そのビール会社で、起きたんです。いろいろいそういうムードが漂っていた時に、ビール会社のある職工さんがサイダーを立ち飲みしたんですね。その当時、サイダーも作ってましたから。そしたら、そいつをなんとかクビにしたいということになって、ビール会社の上の連中がそれを解雇したんですね。それに対する反発が尾をひいてだんだんだんだん労働組合が大きくなっていったのです。それが今度、中小企業の川口の鋳物屋さん、この辺(本町1、2丁目)には軒並み工場がありまして、一番歴史に残る大きいものは「マスキン工場」のストライキなんです。その頃は、労働とかそういうことの意識がないから、親爺の馬鹿やろうとか、嫁っこ出てこい、こん畜生だとか、ほんとうに悪口雑言なんですね。ところがその当時、友愛会のほうから、片山哲という戦後に総理大臣になった人とか、地元では井掘(繁雄)さんなど、そういうそうそうたる社会主義政党の連中がやってきたりしていました。そうしてマスキンの工場はですね、「マスキン工場抜刀事件」というのがありまして、結局その労働組合員と鋳物師側といろいろけんかして、警官がそれに干渉して入ったんです。警官はあの頃、がちゃがちゃがちゃがちゃとサーベルを下げていて、これは別に切れる刀ではないのですが、あんまり騒いだので、警官が刀を抜いてぶったと、それで怪我をしたという、そういうような事件。そのようにして、ストライキとなりました。そしてそのストライキはどんどん伝播して、やれ「関口工場」だとか、「マスケイ」さんだとか、とにかくこの町内でですね、至るところで、労働争議があったわけです。労働争議もすぐ相談しなければならないから、労働組合の人たちが何人かで、我々のところへ来て、どっか空家はないですかと来る訳です。そして悪いですけど、十日間貸してくれと、一ヶ月貸してくれと。しかし、だいたい地主っていうのは反労働だから、労働組合で使うのには貸しちゃってはだめだよということになる。そういうようなことでですね、大正の終わりから昭和にかけて、川口は労働組合で明け暮れてました。昭和7年、満州事変がおこり、8年におさまる。つまり、それで、景気がぐっと向いてきて、またそれがふっと消えちゃったんです。その後、戦争になっちゃって、またそういう時代でなくなる。戦後になってまた、いろいろ労働争議が出たんですが、川口はいやって思いをしておったもんですから、その反面教師ではないんでしょうが、川口はもうあまり労働争議はないし、その前にそういういやな経験をした人が労使ともに、労使問題協議会というのを作って、今だにありますけど、よその都市とは違って、労使協調で行こうというような線が、割合に進んで来たんです。一席終わります。
皆さん:おーーーっ。(感心するため息)
土田:井戸の話の続きですけど‥‥やはりね、川口は大火が少ないというのがあります。火事だっていうと、鋳物屋さんの職人がバケツ持って行って、川口はありがたいことにどこでも水が豊富にあったから、すぐ水をぶっかけて、あっという間に火事を消しちゃうんです。
永瀬:昭和26年の冬に「永幸(ながこう)」の方の火事っていうのがありましてね、それは、すっかり道路が凍り付いちゃって、吹雪でひゅうひゅうしているところにですね、6、7件焼けたんですね。消防車が進むことできないんです。風がびゅうびゅうふいていたので、みるみる焼けて行くんです。ウチあたりもくるのかなーと思っていたら、運のいいことに風が変わりましてね。やはり、大火事ていうのはありましたよ。その前も関口さん、このすぐ裏の大邸宅だったんですが、その関口さんちの火事とかね。大火事は、けっこうあるんですが、川口の人はね、しょっちゅうフキでもって、火を取り扱っているから、勇猛果敢に火を消し止める、火を恐れないというような気質があったんでしょうね。
土田:みんなふんどし一枚になって、屋根に上って、パッパッと水をかけるからね。戦争中にバケツリレーでもってやりましたけど、その当時でしたら、職人さんたちが、ほいきたほいきたとみんなやってくれたものでした。消防団が来る前にみんな消しちゃうんですね。だから、川口ってのは歴史に残る大火っていうのはないと思います。「吹き井戸」は、本町一丁目だけで二十くらいあったんですよ。
参加者のひとり:あの‥‥吹き井戸って話がさっきから出ているんですが、私のイメージしているのは噴水のように出ているものなのですが。
岩田:その通りです。ただ、それが出ますね。それが落っこちてはいけないから、筒をつくりまして、その下にまた筒をつくりまして、三段くらいして落ちるんです。
参加者のひとり:地面に落ちて濡れないようになっているんですか?
岩田:ちゃんと洗い場のようなものがあって、下水に流れますから。本町小学校なんて、とってもいいいおいしい水が出ますよ。
土田:昔はね、下駄買えないあんちゃんが裸足で学校に行ってその水場でもって、がちゃがちゃがちゃと洗って、校舎の中にだかだかだかって入っていってしまうんです。
永瀬:「ノロ」っていうのは、ガラスみたいなものですよね。当時鋪装はしていない。この町はそこらじゅうにそれがあったから、それでもって裸足で歩いたりしたら、今だったら、必ず血を出しますよ。そういうことも恐れてなかったのですね。
土田:でもね、永瀬さん。「ノロ」をひっぱたいて鉄を拾うでしょう‥‥
永瀬:うーん、「カネ拾い」ね。
土田:そう。そうするとね、そうするとね、おばさんたちはその「ノロ」をね、道路から掃き出していたんです。とってもマナーがいいんです。
永瀬:ああ、そうだったんだね。
岩田:ちゃんとね。
土田:昔の川口はね。
永瀬:そういう秩序がないと子供が怪我しちゃいますもんね。
土田:川口の道はね、意外ときれいでね。私も子供の時は、本町通りに住んでいましたから、朝起きると「おまえ掃いてこい」なんて言われて、「はい」って言って、タカ箒と箒を持って出ていました。そうするときれいなおねいちゃん、浦和の女学校に行く人、アダチさんってとこのお嬢さんが前通って、ずいぶんきれいだなあなんてね。
参加者一同:ふふふふ。ははははは(笑)。
土田:そんなことしながら、掃いてましたよ。
永瀬:ああ、足立河岸のね。
土田:アラマキってところの機械屋の親爺だっても、永瀬さんところのお娘さん、きれいだなーって、一生懸命表に出ていましたよ。もう死んじゃっていないけど。






馬糞(まぐそ)の話と馬占(ばせん)の話〜沼と埋め立て、汚穢の話〜ツェッペリン号の話

地元の方のひとり:そういえば、その河岸では、今でいう「峰岸運送」とか「平田運送」とかは「馬方(うまかた)」をしていましたね。
土田裕さん(以下敬称略):今ね、「平田運送」さんがうちのすぐそばに大きな車庫建てていますけど、昔はね、土手の下でもって、馬小屋やってて。うちのおふくろが、からだ悪くなっちゃった時、なんか馬の馬糞(まぐそ)であっためるといいっていうので、バケツを持って.......
皆さん:えーっ。はははははは(笑)。
土田:馬糞(まぐそ)のしたてのあったかいやつを持って帰って、タオルにつつんでお腹にあてましたけどね。
山岡においとかないんですか?
土田:そりゃーくさいよ!
皆さん:わーはっはっはっはっ(大笑)。
岩田健さん(以下敬称略):においなんてものはね、昔はそこらじゅう........。汲み取りも、肥桶の中にためておく訳ですから、半年間。ふふっ(笑)。
永瀬洋治さん(以下敬称略):あのね、よく荒川の近所にも畑があって、肥だめがあって、それは汲み取ったやつをためといたんです。すぐしたばかりのやつをやっても効かないですからね。ためといたやつが効くんです。ところが、そこに落っこちちゃうやつがいるんですね。胸のところまではいっちゃってね。
参加者の皆さん:はははははは(笑)。
永瀬:昔ね、「阿久津川」っていう相撲取りがいたんです。それがね、「佐渡ヶ嶽部屋」のある時代の親方なんです。「湊ノ川(みなとがわ)」ってのは知らねえかもしれないけど、横綱まで行った相撲がいましてね、その連中の道場が、川口に以前あったんです。その「阿久津川」が晩年ね、よくわたしにちゃんこなべを食わしてくれてね。その昔相撲なんてのは荒っぽいからね、ふぐを買ってきて、ろくすっぽあれしないでぶつぶつぶつ切ってやるんですね。
参加者たち:うわーーー。(えー怖いという女性の声あり。)
永瀬:相撲でよくね巡業なんかすると‥‥ふぐがあたるんですね。「阿久津川」もある時、あたったんですね。そうすると何が効くかっていうと、その肥だめの澱になっているのを‥‥
参加者の皆さん:うへーーーー。
永瀬:のをね、コップに掬って口開けて飲ませるんです。
参加者の皆さん:うっひゃーーー。えーーーー。げーーーーー。あっはははははっははははははははは。
永瀬:そうやって吐かせるんだそうです。寝かせといてね。‥‥相撲はね、昔大正時代、ふぐの中毒が多かったんだそうです。料理屋でなく、みんな弟子達がやっちゃうから。そういう荒っぽいことだったということ、親方はよく言っていましたね。解毒剤なんですね。
参加者の皆さん:(驚きから覚められず、みなふふふふわさわさ言っている)
---岩田先生、ところで、「馬占(ばせん)」というのは何ですか。
岩田:「馬占(ばせん)」というのは、それは‥‥荒川大橋を作る時のことですが、そのためには122号線を作らなければならないので、芝川のこちらのところを埋め立てることに、なりました。そこを埋めるために、「馬車専用軌道」つまり「馬占(ばせん)」と言って、馬車をひっぱるトロッコの軌道をつくり、今のパブリックゴルフのあたりの土を掘っては、こっちへ運んだのです。今、みなさんお感じにならないでしょうが、本町公民館からこう曲がってこっちに来る、あの道から向うは芝川の氾濫するところで、ずっと低かったわけです。あれは土手だったのです。土手なのはおわかりでしょうね。ダイエーのところからこっちは坂になっているのはおわかりだと思います。
土田:あのね、屋根から床くらい、低かったの。
岩田:その、今申し上げたパブリックゴルフあたりの、掘ったところは池になっていまして、子供達は危ないから行ってはいけないということになっていたのですが、芦の原っぱの向うにそれがあるので、みんなそこに行くんですね。ところが、ある時、ひとり第一小学校の生徒がそこで死んだもんですから、当時の校長の廿楽(つづら)校長が涙を流して、校葬にしたということがありました。そういう広い池がございました。
 「馬占(ばせん)」というはそういうことなんです。「馬車専用軌道」なんです。本当は「馬専(ばせん)」です。なのに、なぜ、そんな字かといいかすと、‥‥ちょう満州事変の前のころに、「馬占山(ばせんざん)」ていう匪族(ひぞく)の頭目がいまして、「張作霖」の相手役で、それに日本軍が手を焼いていました。その「バセン」と「バセン」がまざっちゃって、本来、「馬専」と書くものが、「馬占」と言われるようになりました。紙芝居でも「馬占山」をやっつける話がでてきたものですから、「黄金バット」などの話とともに、みんなで喜んで見ていた話でした。
永瀬:川口の発展の歴史は、埋め立てなんです。工場というのはそこの土手(舟戸公園方面を指差す)から荒川堤外にあったのが、だんだん大きくなって青木町だとか飯塚町だとかへ、鋳物屋さんが越していくわけですね。たいがい、堀とか池がすごく多かったんですね。鋳物屋さんは、さっき言った「ノロ」がどんどん出るので、それを埋めなければならない。よそに埋めにいくわけにはいかないから、自分の近くにある池にどんどんどんどん埋めていく。そういったところで、鋳物工場が点在したのが、今の川口全市にまで点在するようになったんです。埋め立てという原点は川口の発展に繋がったんですね。水ったまりがずいぶんあったんです。
山岡なるほど。
土田:だからね、川口の町のまん中、武州銀行のあったところの後ろなんて、大きな沼地でね、あそこに杭を打って、幼稚園に行くのに、学校の横っちょからはいっていくってえと、その沼地を、要するに尾形光琳描くかきつばたの橋が互い違いになっている、ああいうふうな感じになって向うまで渡って幼稚園に行ったんですけど、あそこいらはみんな沼だったんです。
 たとえば、帆掛け船が、芝川を行き来していました。東京でもって、汚穢(おあい)を積んでもって来て、上流の農業地域へ運び、そんでこっちから行く時には野菜を積んで行って、東京で野菜を降ろして。わたしたちは、あの「上の橋」から飛び込んで泳いだりしていて、あの橋が遊びのひとつの起点になっていたんですが、そこから見ていると、舟がやってくるんです。帆を橋のそばまでくると降ろして、それから帆柱をぐーっと倒して、橋の下を通るんです。ところが、柱を倒すと汚穢(おあい)がわーーーっと出てくるんです。それでもって、川に流れたりするもんですからね、橋の上から見てると、後ろから誰かに押されて、その上にジャボンと落とされちゃったり。
参加者の皆さん:わっはっはっは(大笑)。
土田:そういうような悪戯をね、よくしたもんです。
山岡「ツェッペリン号」を見た話というのを聞かせて下さい。
土田:「ツェッペリン号」ってのは、わたしが子供の時なんですが、さっき言った122号のところに庚申塚があって、その見晴しのいいところに、そこに丸い大きなやつがぐわーっとのぼってきて、ありゃなんだろなあ、なんだんべえってと言ってるうちに、大人が「あれはツェッペリンだ」って。みんなでその122号の土手の上から見ていて、それがちょうどその大橋の水門のとこらへんで、ぐーーっと横っちょになって、それで東京の方に飛んでいくのを、今だに目に焼き付いてますけど。今から75年くらい前の話です。
岩田:ドイツで飛行機の代わりに、グラフ・ツェッペリンという伯爵が発明した飛行船ですね。「ヒンデンブルグ」って有名なのを御存じかも知れませんが、あの焼けて落っこちたのね、あれの前が「ツェッペリン」。グラフ・ツェッペリンが世界旅行する為に、アメリカからこっちに来て、霞が浦に来まして、翌日東京に訪問するっていうんで、わたくしは土田さんと違って、土手の上から見てたんですが、やっぱりこっち(北を指差す)から飛んで来て。御存じのようにあれは水素ガスを積んでましたんで、「ヒンデンブルグの悲劇」というのがありました。あれから、おそらく10年ですね.......で、急に飛行船の評判はがた落ちになりまして、それまではとても有名でございまして。
参加者:日本に下りたんですか?
岩田:ええ、霞が浦に下りまして.......羽田はね、まだ昭和3年頃は、まだ飛行場になってませんでしたから。
土田:海軍の飛行隊があそこにありましたからね。その当時、水素ガスだったんですね。ヘリウムでなくて。あれがね『地獄の天使』って昭和5年ごろに、私は川口の卓三館ていう映画館で見たんだけど、あの飛行船がロンドンへ行くんです。大正6、7年の話ですけど、空爆に行って、なんとかしてあれを落っことさなきゃっていうんで、今の特攻隊じゃないですけど、二枚翼のプロペラ機があの飛行船の上にまっ逆さまにつっこんで、ロンドンの町はずれでもって、飛行船にぶつかって爆発して、自分も死んで、それでもって、飛行船が真っ赤に燃えて落ちるなんて話。私は小学校の1年か2年か3年の頃、見たんですけど、それをなんとかもう一度見ようと思って、最近になって川口にあるNHKライブラリーに行ったりなんかしていますけど、ないですね。
参加者:本当の話なんですね?
土田: 本当の話です。
永瀬:ヒンデンブルグ号の爆発の話だったら、たくさんききますね。
岩田:それは話だけで、映画はないようです。






川口言葉

岩田健さん(以下敬称略):ところで、川口方言なんですが、あれ、土田さん話してください。
土田裕さん(以下敬称略):え?何?
岩田:川口言葉。
土田:あ〜〜〜(かなり楽しそうになって)川口言葉はね〜〜。うちの近所の人がね、元郷の方ですが、王子のところからちょっと行ったところの有名な女学校に入ったんです。入ったとたんに、「おめーどこからきたー?」って、東京のお嬢さんに向かって言ったら、「おめーって誰のことですか」って。
参加者の皆さん:ふふふふふふふふ。はっはっはっ(大笑)。
土田:「(勢い込んで)おめーじゃないか!!」って言い返したら、「(上品そうに)おめーってあなたどこから来たの?」って。それで「(声色変えて)おりゃー川口だっ」って言ったって、話です。川口ってのはひどい言葉だなって思ったでしょうね。また長屋なんかに行くってえと、おとうさんのことを「チャン!」て言うんです。そいでおかあさんのことを「アーヤン、カーヤン」。今でもそういう言葉を使う人を、私は知っていますけど。まだ、ひとりかふたりかいます。「オ」なんてつけない。「カーヤン」。(あるおとうさんが子供に、ある時)「チャン、チャンなんて言うんじゃないぞ、これから東京連れていくから。」って連れてったら「(高い声で)チャン、あれなんだ?」(って聞く。)おとうさんが「(声色低くなって)おめー、チャンて言っちゃいけねえんじゃないかい」「(高い声で)あそっか、チャンって言っちゃいけねーんだっけな、チャン!」って。(落語風)
参加者の皆さん:(爆笑)
土田:とかね、よく言いますけどね。
永瀬洋治さん(以下敬称略):福島県の方から来て、土着した人も居ますから、福島言葉と、江戸弁がくっついちゃって、ここらへん、きたねえ言葉なんですね。それとここら辺は、技術言葉があります。たとえば鋳物業だからね、「ガンバラ」って知ってます?「オシャカ」ってなら知ってるでしょう。なにか鋳物を吹いて、「火が強かった」っていうのは、江戸言葉で「シガツヨカッタ」。「四月八日」(つまり)「お釈迦様の日」。だから、失敗したのをオシャカっていうんです。
山岡そうだったんだ!
永瀬:そして、川口はさらに、ガンバラって言うんですよ。
地元の方:へっへっ。
永瀬:おまえガンバラベー吹いてこんちくしょう.....てこうなるんですよ。へたな職人で、あいつはガンバラベー、吹いてるんだって、こうなるんですよ。
参加者:ふっふっふっ。
永瀬:それから「マロ」っていうのと、「アメ」っていうのがあるんです。これは、川口はクレーンで鉄を上げるでしょ。上だー、下ですよーって言わないで、「アメ」ってのはクレーンでもって下に下げろってこと。「アメーッ!」(叫ぶように)て言うんです。「マロ」ってのは、お公家さんがね、杓子持って(手でポーズする。杓子を持った手でおなかを押さえるようにする。そんなふうに)「マロ」っていうんです。すると、上を向くってわけなんです。それからね、そういう言葉はね、無数にあるんですよ。
岩田:車輪のことハマなんていいますね。
地元の人のひとり:鋳物の不良品ができると「ガンバラ」って言ったんですよ。ガンと叩いてこわれて、バラバラになるから、ガンバラっていうんですよ。
永瀬:よその人や、今の人は全然知らないでしょうね。
岩田:私は、東京の雑司ヶ谷の中学校の図工の教師でしたから、教えに行って「ああガンバラ」なんてつい言っちゃって、でも誰も分からないんです。
皆さん:はははははははははは(笑)
岩田:私は当然わかっていると思っていたんですが(笑)。
永瀬:だんだん年取ってきて今にも死にそうになってきたら、もうあいつは「ガンバラ」だよって、言われちゃうんですよね。



 
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