漫画交流・恩人の皆さん

田代しんたろう


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まず、一番は「浦川広子」さん!!
年賀はがき展の企画をソウルの日本文化院に持ち込んでくれた張本人です。
僕がいわみせいじさんから浦川さんを紹介されたのは1996年の夏でした。
神田の「吾妻屋」という焼鳥屋さんでお会いし
日韓交流の企画を立てようと約束しました。
その秋の漫画とサッカーの交流企画の際
ソウルの若手一コマ漫画グループ「カトゥン・パンチ」と
引き合わせてくれたのも浦川さんです。

翌年僕が日本の芸能人サッカーチーム「ザ・ミイラ」のゲストとして訪韓した際、
当時の韓國漫画家協会会長コン・ヨンソップさんとひょんな出会いをするのですが、
その時通訳をしてくれたのもやはり浦川さんでした。
そして、彼女からの「日本文化院で漫画展をしましょうよ」という提案に対して
「年賀はがきなら50点くらい集められるかな」と始まったのがこの交流展なのです。
浦川さんは現在「梨花(イファ)ビューティーサロン」という
韓方(ハンバン)エステのお店を経営されています。
「関連リンク集」の中の●協賛企業にリンクがあります。
ソウルに行かれた際は是非お立ち寄りください。気持ちいいですよ。

*当ホームページ「日韓漫画交流これまでの経緯」の最初の写真
真ん中前の髪のうすいオジサンの後ろにいる小柄な女性が浦川広子さんです。


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加納由美さんとジョン・ヒーグーさん


加納由美さんは韓国籍の女性で
僕が代表を務めていた草サッカーチーム「FCタートルズ」の
メンバーのお嫁さんということで、お付き合いが始まりました。
彼女のすすめで僕らのサッカーチームは1992年にソウルで遠征試合をしています。
その時、試合相手を決めたり、いろいろなお世話をいただいたのが
ジョン・ヒーグーさん(当時ソウル市庁勤務)です。
ジョン・ヒーグーさんは加納由美さんの従兄弟のダンナさんに当たります。
1996年にW杯日韓共催の決定を受け、漫画とサッカーの交流を企画したときも
まずジョンさんに相談を持ちかけました。
その時ジョンさんはTBSというFM放送局に総務部長として出向しており
「ディスクジョッキーをしている歌手が大のサッカー好きだから・・・・」と
韓國演芸人蹴球團とのマッチメークをしてくださいました。
その歌手がキム・フングクさん。
韓國芸能界の「サッカー応援団長」と言える方です。
こうして1996年「共催決定」の年のサッカー交流は話が進みました。


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川野壽雄(かわの・としお)さん


1996年、サッカーの親善試合は
日本「のんきなタートルズ」対韓国「韓國演芸人蹴球團」
ということで話が進みましたが
僕としては漫画関連の催しも企てたく・・・・

まんが似顔絵をソウル市民にプレゼントして共催歓迎をアピールするという企画を考えました。
そのことをサッカーチームのメンバーだった手島直幸(三和総合研究所勤務)に相談したところ
「今、うちに少し前まで三和銀行のソウル支店長だった人が出向で来ているから・・・」
早速、その重光静武(しげみつ・きよむ)部長にお会いしました。
重光さんは僕らの企画を良く理解してくださって
ソウル在勤の一人の日本人の方をご紹介くださいました。
その方が当時「ホテル・ロッテ」副社長の重職にあられた川野壽雄さんです。
僕は「ロッテ」と聞いて「ロッテデパートで似顔絵プレゼントのパフォーマンス」と考えましたが
川野さんから「これまで漫画イベントの実績もあるロッテワールドが良いでしょう」
と提案をいただきました。
そして、浦川さん紹介のカン・イルグさん率いる漫画グループ「カトゥン・パンチ」と
ロッテワールドでの韓日漫画家似顔絵プレゼントが実現に至ります。

その後の訪韓でも川野さんにはいろいろご馳走になったりしますが
一番のゴージャスは・・・・・・
ホテル・ロッテの黒塗りの公用車でキンポ空港まで運んでいただいたことでしょうか。

*「2001春のひとコマ漫画展」のトップページの写真がその時のものです。
前列左から三人目が川野壽雄さん。
右から二番目モゾモゾしているのが明日話題にさせてもらうカン・イルグさんです。


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カン・イルグさんと「カトゥン・パンチ」のみんな


韓国では似顔絵のことをカリケチャ(カリカチュア)と言ったり
一コマ漫画のことをカットゥン(Cartoon)と言ったり、
日本語では滅びつつある言葉が生きています。
「カトゥン・パンチ」は若手?の一コマ漫画作家のグループです。
いつも頼りなげにグループをまとめているのがカン・イルグさん。
カン・イルグさんの漫画はとてもシンプルなナンセンス漫画です。
言葉を使わず単純な線で人間を語り、いろいろな国の漫画賞も受賞しています。
グループのメンバーもいろいろ変わりながら・・でもいつもみんなで僕たちを歓迎してくれます。
一緒に食事をし、ヨガン(旅館)の部屋でプレゼント交換をします。
ロッテワールドのイベント終了後の宴会以降、毎年続く「儀式」みたいなものです。
みんなでカイバイボー(ジャンケンポン)で日韓双方のお土産を分け合います。
僕はいつも日本のエッチ雑誌をお土産に持って行っていましたが
シン・ミョンファンさんもシム・チャソプさんも奥さん連れになっちゃったから
ちょっと考え直さないといけません。
*「2001春のひとコマ漫画展」のトップページの写真、右半分あたりが1996年当時のメンバー。<日韓漫画交流これまでの経緯>の中の<渡韓報告>から<渡韓ウラ報告>へ進み<日韓漫画交流詳細旅日記(田代しんたろう篇)>の最初の写真が最近の「カトゥン・パンチ」


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浦和市スポーツ企画室(現さいたま市スポーツ企画課)


ちょっとサッカー交流の話になってしまいますが・・・・
1996年、ソウルでのチュック(サッカー)親善試合が大成功に終わった後
「韓國演芸人蹴球團」の團長ソン・キョンチョルさんと歌手のキム・フングクさんから
「今度は僕らが日本へ行くから日本で親善試合をしようよ。田代さん準備よろしく」
との逆提案を受けてしまいました。
帰国後どうしたものかと困惑しているところへご近所から助け船がありました。
川口市商工会関連の仕事でお世話になっていた中小企業診断士の木村裕美さんという女性が
「田代さん、わたし浦和市役所に知り合いがいますから、聞いてみましょうか?」
「是非、お願いします」
木村さんは当時浦和市政策審議室におられた山田貴和さんを紹介してくださいました。
山田さんは「良い話ですね。スポーツ企画室という部署がありますから、対応してもらいましょう」と
トントン拍子に話が進み、駒場スタジアムでの親善試合が決まったのです。
日本側は望月三起也さん率いる日本芸能人チーム「ザ・ミイラ」。
サッカーコメンテイターの小谷泰介さんが話をまとめてくださいました。
僕たちアマチュア「のんきなタートルズ」は浦和市在日韓国人四十雀チームと対戦という二試合。
韓國の試合のちょうど一月後、今度は日本でキックオフのホイッスル。
観客は多くありませんでしたが相川浦和市長も激励に駆けつけてくださいました。
それから5年後の今年、浦和市は大宮市、与野市と合併し新「さいたま市」に。
そのさいたま市立漫画会館で今回の第五回展覧会を開催させていただくことになりました。
スポーツ企画室から格上げされたスポーツ企画課のお世話で「2002FIFAワールドカップ日韓共催記念」の冠を頂戴し
展覧会費用の一部をバックアップしていただくこともできました。
ちょっとした「ストーリー」でしょ。



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ジョンさんと僕の運命的な結びつき


駒場スタジアムの試合には、TBS(韓国のFM放送局)総務部長ジョン・ヒーグーさんも
「韓國演芸人蹴球團」のお目付役として来日されました。
ジョンさんには韓国ですっかりお世話になり、僕らはもう兄弟のような関係になっていました。

本当に不思議なことってあるものです・・・・・・・・
僕は本名を田代為寛(タシロタメヒロ)といいます。
五人兄弟の末っ子なんですが兄が二人いて、長男は為喜(タメヨシ)次男は為久(タメヒサ)です。
さてジョン・ヒーグーさんなのですが、お名前を漢字で書くと・・・・
名字のジョンは田代の「田」。ヒーは「喜」グーは「久」。なんと兄の二文字なのです!!

ジョンさんはいつも「タシロ!タシロ!」と大事にしてくれます。
現在はソウル市城東区の生活福祉局局長。秘書も付くけっこうエライお役人です。
ソウルでの漫画家さんとの食事会でも構わず現れて堂々と僕の隣りに座ります。
*「日韓漫画交流これまでの経緯」の最初の写真、1996年親善試合の写真でも堂々と真ん中にいるでしょ。


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コン・ヨンソップ韓国漫画家協会元会長


1996年の駒場での日韓芸能人サッカー試合に続き、翌1997年夏に
「ザ・ミイラ」宛に韓国演芸人蹴球團から親善試合の申し込みがありました。
僕も「ザ・ミイラ」の一員としてとして同行しないかと望月三起也さんからお誘いが掛かりました。
「家の光」の韓国農協女性部取材、月刊「武道」のソウル・ヨイドの柔道場取材を兼ねて
同行させていただくことにしました。
奥寺康彦さんや李國秀さんも参加した豪華メンバーで、試合場は東大門スタジアムでした。
試合終了後、浦川さんの通訳でヨイドの柔道場を駆け足で取材、
急ぎレセプション会場のハイアット・ホテルに戻りました。
芸能人サッカーのレセプションでしたがどういうわけか(浦川さんに呼ばれ)
カン・イルグさんがロビーで待っていました。
「いいよ。いいよ。一緒においでよ」
レセプション会場のテーブルでカン・イルグさんとトンチンカンな会話を交わしていると望月三起也さんが呼んでいます。
行ってみると望月三起也さんの隣にスケッチブックを持ったオジサンが立っていました。
当時韓国漫画家協会会長職にあったコン・ヨンソップさんでした。
たまたま所用でハイアット・ホテルに来たコン会長が、
日本の漫画家がパーティーに出席していることを聞き立ち寄ってくださったのです。突然の「お出まし」でした。
その場は名刺交換をし「今後ともよろしく」で終わったのですが
その名刺を頼りに数ヶ月後「年賀はがき展のプランにご協力いただけませんか」のお便りを送ることになります。
そしてコン会長が快く僕らの申し出を受けてくださり、第一回日韓漫画家年賀はがき展がソウルの日本文化院で開かれることになります。


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松田 茂さん

浦川広子さんが年賀はがき展の企画をソウルの日本文化院(正しくは在大韓民國日本國大使館公報文化院)に持ち込んだ時
企画を受け入れてくださった担当者が、「松田 茂」さんです。
第一回開催の1998年当時、「文化担当補佐官」という役職名でした。
風貌も似ているのですが、日韓年賀はがき展成功の魔法の扉を開いてくれた「ドラえもん」と言えます。

日本文化院ではそれまで1月に「日本のお正月展」と題して正月風物や企業のカレンダー展を開いていました。
そこに新風を吹き込もうと、元々漫画好きの松田さんがわれわれの企画を受け入れてくださったのです。

松田さんの仕事はとても丁寧で、展覧会準備の進捗状況が逐一FAXで僕の仕事場へ送られてきました。
僕も返信をし、開会までには分厚いFAXファイルができていました。
はじめての経験でしたからご苦労も多かったことと思います。
プレスリリースも熱心にしていただきました。
新聞社、放送局へ職員の方々が直接出向き、広報をお願いして回ってくださったそうです。
OPENの日「文化院始まって以来の記録的入場者数です」とのFAXが送られて来ました。
ワープロ文字でしたが、キーボードを打つ松田さんの手が震えているように感じました。
翌日「またまた記録更新です!!」のFAX。
似顔絵プレゼントのために渡韓する僕らの胸は高鳴りました。

松田さんは僕たちをとても丁重に迎えてくれました。僕らも期待に応え、精一杯似顔絵プレゼントに励みました。
感動の第一回開催でした。

文化院の建物をおおってしまうような超特大垂れ幕を掛けたり
第2回展では豪華な作品集を作っていただいたり
本当にこの交流展を大事に考え、目一杯の盛り上げをしてくださいました。
松田さんのパワーに後押しされたお陰で、僕らもくじけずこの企画を続けてこられたと思います。

2年前に松田さんは在済州日本国総領事館に勤務地を移されました。
残念でしたが、でも松田さんは済州島でも公報文化センターを新設されたりお元気に活躍されています。

松田さーん、ホームページ見てくださってますか?
お陰様で僕らも元気にやってますよー。


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P荘のオバチャンとオジチャン


僕らのソウルでの定宿はチョンノ三街(サムガ)の裏通りにある某モーテル、P荘。
一泊2000円せずに泊まれます。
1階フロント横のオンドル部屋が本部?になります。
バスタブはなくシャワーだけですが、近くのモギョタン(沐浴湯=銭湯)で朝風呂できるので
ケンチャナヨ(大丈夫!)です。

オバチャンもオジチャンもいい人でいつもニコニコ迎えてくれます。
オジチャンは英語が話せますが、オバチャンはハングルのみ。
数年前から日本語を勉強していますが、喋れるのは・・・・・・僕らの名前くらい
「おー、ハマモトサーン」「イワミサーン」
一昨年はオジチャンがマッコルリを振る舞ってくれました。なにやら遠くの町まで買いに行った「銘酒」だそうで。
オンドル部屋で飲む冷たいマッコルリは最高です。

このP荘、実は実は・・・・後で知ったんですが・・・・
僕らはそういう趣味はありませんが・・・・
ソウルでは「男性カップル御用達」として有名なんだそうです。
やっだ〜〜〜!!

でもオバチャンもオジチャンもいい人なんで、今も利用し続けています。
重ねて言いますけど、僕も浜本さんもおださんも決してそういう趣味はありませんから。
例えピンクのライトのオンドル部屋に二人っきりでも。


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趙寛濟(チョ・カンジェ)さん


この交流展も昨年はピンチでした。
日本文化院が主催から引くということで開催が危ぶまれました。
その時、救いの手を差し伸べてくれたのが
趙寛濟(チョ・カンジェ)さんが館長を務める富川(プチョン)漫画情報センターです。
日本文化院から開催不可の知らせが来たのが9月でしたから
わずか3か月で開催決定・準備をしてくださいました。
来年1月の日本国際交流寄金ソウル文化センターでの韓国ラウンドも
富川(プチョン)漫画情報センターの展示担当の方が準備に当たってくれています。
丁度今日、18日に発送したEMS便(日韓全作品)が到着したとのFAXが担当の宋(ソン)さんから届きました。

1999年1月、東京の韓国文化院での第2回展(日本では初の開催)の折り
趙(チョ)さんは来日されました。
キム・ドンファさん、イ・ヒジェさんと一緒でした。
(「日韓漫画交流これまでの経緯」ページ3枚目の写真、前列左から3人目が趙さん)
セミナーで韓国漫画界の現状についてお話しされましたが
「自国のことながら韓國漫画界の創造性の乏しさが恥ずかしい」
というようなことをおっしゃっていたと記憶します。
漫画に対して厳しく激しい情熱を持った方です。
昨年趙(チョ)さんが流された涙については「旅日記」12月20日の項をご参照ください。

趙寛濟(チョ・カンジェ)さんは日本語も少しできます。
「ワォッ!スゴイデスネェ」「ダイジョブ、ダイジョブ」
などが得意なフレーズです。
ほんとに気のいいオジサンで嬉しいことがあると、手を握って離そうとしません。
重ねて言いますけど、僕はそういう趣味はありませんから。


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原田美佳さん


1999年の第2回展と2000年の第3回展の日本開催は東京南麻布の韓国文化院でお世話になりました。
そこで諸々のことをコーディネートしてくださったのが職員の原田さんです。
おっとりタイプの女性ですが、実によく働かれて・・・・・
日韓の文化交流事業にはすべて関係しているんじゃないかと思われます。
交友関係も広く、日韓文化交流に関係された方々は皆さん原田さんをご存知だと思います。
いろいろご招待のお声も掛けていただき大変感謝しています。

「日韓ミーハー通信」というメルマガ?も出されていて
この交流展のことも大いに宣伝していただきました。

昨年は交通事故に遭われて散々でしたが、2002年はきっと良い年になりますね。


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金 水正(キム・スジョン)さん


韓国漫画家協会の会長さん2年の任期で交替します。
今まで三人の会長さんとお付き合いさせていただきました。
最初が權 榮燮(コン・ヨンソップ)さん、お二人目は李斗號(イ・ドゥホ)さん。
そして現会長の金 水正(キム・スジョン)さん。
スジョンさんはアニメにもなっている大ヒットキャラクター「ドゥリ」の作者です。

プチョン(富川)市のソンネ駅近くにはドゥリ・ストリートという通りがあり
スジョンさんのキャラクターが町のあちこちに配されています。
漫画の人気だけでなく漫画家仲間の間でも人望が高く、ベテランから若手漫画家まで強い支持を得ています。

一昨年のソウル開催の折りのことです。
日本文化院での2日目の似顔絵プレゼントが終了する頃、スジョンさんも来てくれました。
前日は協会のベテラン漫画家さんたちとの会食があり、その時もスジョンさんはつき合ってくれていました。
スジョンさんはお酒が飲めないのですが、一人で焼き肉を焼いてサービスに努めてくれました。
大ヒットを出した超多忙の億万長者なんだけど誰もが人格者と認めるわけがわかりました。
その日も食事に招待したいと考えておられたようです。
でも「カトゥン・パンチ」との予定があると話すとその時間まで喫茶店でつき合ってくださいました。
喫茶店代はスジョンさんのおごり。
その支払いために、若い「カトゥン・パンチ」のみんなと居てくれたのです。

昨年2000年9月、金大中大統領の来日に会わせ東京で「日韓文化人懇談会」が開かれました。
漫画界からはスジョンさんと僕が出席しました。
(やなせたかしさんも出席予定でしたがたまたま体調が悪く、欠席されました)
その時は、新宿紀伊国屋コミック店と渋谷のまんだらけを案内したり、僕なりに一生懸命サービスに努めました。
お寿司をご馳走したりもしましたが、いつもおだやかな笑顔で「コーラ」を飲んでいます。


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さいたま市立漫画会館館長 米谷 晃さん


いよいよ連載も終盤かな?
誰ですか、「ネタが尽きたな」なんて言ってるのは。もう少し続きますよ。

昨年は日本開催が叶わず、実際の展覧会は韓国のプチョン(富川)漫画情報センターでの開催のみでした。
お陰で「それならホームページをつくろう!」とおだ辰夫さんにご協力いただき
新しい展開ができたわけですが・・・・・

今年はその反省から、6月頃から会場探しを始めました。(ちょっと遅かったか)
敢えて名前は挙げませんが、知り合いを頼りに何件かにアプローチしましたがいずれもイマヒトツ。
旧大宮市の漫画会館を思い出し、現在はどんなふうになっているのか下見聞に出かけようと思いました。
とりあえず電話をしてみると、出られたのが米谷館長でした。
とぼけるのもなんなので「川口に住んでいる漫画家の田代」と名乗り
その日の開館を確認して出かけました。

さり気なく入場し北澤楽天の展示を拝見した後、米谷さんにご挨拶しました。
米谷さんはすでに僕のことをご存知でした。
「サンケイ・リビング」という地域情報紙に載った僕の記事をスクラップしてお持ちでした。
「サンケイ・リビング」は埼玉スタジアム2002のアドバイザー仲間の岸野順子さんが編集長を務めており
少し前に取材してくださって、この漫画交流のことも記事にしてくださっていたのです。

米谷さんも漫画会館と接点が持てないか僕に連絡を取ってみようと考えていたそうです。
それなら話が早い!と僕なりの「条件」を提示したのですが・・・・
正直に言って・・・・漫画会館は人手もお金も潤沢でなく・・・・
米谷さんは良い企画だということは大いに認めてくださるが、無い袖は振れず・・・・

というわけで、トントン拍子に話は進み(深く追求しない!)
館長のご努力で「さいたま市主催」という決裁もいただき
スポーツ企画課のご努力で「2002FIFAワールドカップ日韓共催記念」という冠もいただき
めでたく今回の漫画会館での日本ラウンド展覧会は成功裏に終了したわけです。
パチパチパチパチ
相川さいたま市長様、祝電ありがとうございました。
さいたま市役所関連の皆さま、お世話になりました。
大宮・浦和(別に他意ナシ/日韓か韓日かみたいにもめないでね)与野も・の合併に幸多かれ!!


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埼玉ついでで川口市のお世話になった皆さんをご紹介します。
今回の僕の出展はがきを見ていただければおわかりかと思いますが
川口市は僕の「地元」です。

さいたま市スポーツ企画課をご紹介した折に
中小企業診断士の木村裕美さんはご紹介しましたが
その他に・・・・

リンク集の ●協賛企業の中に
「川口・鳩ヶ谷ラビリンス」というサイトがあります。
ikumiさんという女性が運営する川口周辺情報メールマガジンのホームページです。

今回、韓国作品が送られてきた時にCD-ROMも同梱されていました。
韓国の漫画家さんの中にはデータのみでの出展の方もいらっしゃって
韓国漫画家協会からそのまんまCDに書き写されて送られてきたわけです。
ところが、そのCDが僕のウィンドウズでは読めない。
おだ辰夫さんのところに持っていってみるとマックでは読める。
おださんはMO書き込みはできるが、CD-Rは無い。
僕はMOドライブは無く、困った。
帰宅後、「川口ネット」というメーリングリストでヘルプを訴えると
間髪を入れず、協力を申し出てくれたのがikumiさん。
お陰でスムースにホームページづくりも進みました。

川口関連でもう一件。樹モール/川口銀座商店街さん。
こちらは、お世話になる「予定」です。
今回は、ワールド・カップイヤーということで
二次展のご希望があれば額装作品のレンタルに応じようと考えています。
(但し原画の展示は本展のみとし二次展はデータからのプリントアウトを額装します)
このレンタル企画にいち早くお申し込みいただいたのが、樹モール/川口銀座商店街さん。
JAWOCに認可された「2002FIFAワールドカップ公認グッズ」取り扱い商店街です。
活気のある商店街で商店街の運営するギャラリーもあるんですよ。燦(サン)ギャラリー
4月中旬に開催予定です。
天地堂かばん店の田中宣充さん、みぞぶち文具店の溝渕幸一さん、ありがとうございます。

ワールドカップ盛り上げ行事を企画中の関係者の方がいらっしゃいましたら
当まんが展を大いにご利用ください。

最後に、川口市長岡村幸四郎さま!漫画会館へ祝電をお送りいただき・・・カムサハムニダァ。


<<<漫画交流/恩人の皆さん>>>
前々回、さいたま市立漫画会館館長 米谷晃さんの項で
「サンケイ・リビング」編集長 岸野順子さんをご紹介しましたが
マスコミ関係でもたくさんの方々にお世話になっています。

1996年の秋の漫画とサッカーの交流企画の際、その模様を当時松平定知さんが司会を務めていた
NHKの「ニュース11(イレブン)」で詳細に報道していただきました。
我々の企画をNHKと結びつけてくださったのは元解説委員の吉村秀實さんです。
吉村 秀實さんはクニ・トシロウさんの幼なじみなんです。
NHK関係では解説委員の松尾正洋さんが司会を務めていた「ラジオ夕刊」でも
一昨年、日韓年賀はがき展についてお話しさせていただきました。

新聞関係でもたくさんの方々に記事を書いていただきましたが
その中でも埼玉新聞の新井健次さんには良くしていただきました。
一昨年、一面カラーで韓国文化院での開催を取り上げていただきました。
今年は地元の漫画会館での開催ということもあり、11月28日付の一面カラー記事に続き、
12月1日からは一週間の連載記事として、たくさんの作品を紹介していただきました。

韓国関連新聞の「東洋経済日報」でも多くのスペースを提供していただきました。

マスメディアに取り上げていただくことは、多くの人に我々の交流を知っていただけることもありますが
我々の企画を認めていただくことで、強い精神的な支えになったことも大きかったと言えます。
感謝に堪えません。


とりあえず、これにて<漫画交流/恩人の皆さん>の連載を終了といたします。
これまで、僕らの交流を支持し、協力してくださった多くの皆さま
本当にありがとうございます。
僕らはこれからも長く長くこの交流を続けてまいります。


(2001年のクリスマス頃、当時の掲示板に連載した記事です。)


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