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日本サッカー少年の夢

手島直幸

2002年11月英国での結婚式に招かれ、ついでにプレミアリーグの試合を観戦することができた。新郎の英国人は再婚で私と同い年で、ニューキャッスルユナイテッドのファンである。スタジアムで試合が始まり、なにか奇妙な既視感覚に襲われた。妙にしっくりする。どこかで見たことのあるサッカーだ。

思い出した。ダイヤモンドサッカーだ。1965年ころから岡野俊一郎解説、金子勝彦アナウンサーのコンビで、12チャンネル毎週日曜日(何回か放映日は変わったと思う)英国リーグのフィルムを見せてくれていた、あれが私の心象風景としてあったのだ。ジョージベスト、ボビーチャールトン、ゴードンバンクス…彼らはわれわれのヒーローだった。1964年東京オリンピックのときは高校1年生。日本ではサッカーはまだマイナースポーツだった。日本代表の試合を国立に見に行っても、サッカー狂会をはじめとするマニア的な人たちが大半だった。

高校からサッカーを始めたのだが、今から思うとなにか違うスポーツのように思えてくる。ボールはゴムのチュウブから空気を入れゴムバンドでとめたのを、つぎはぎだらけの皮ボールのなかに押し込み、ニードルと称する器具で紐かけする。ボールを蹴る方法を知りたいと思って図書館にいっても、旺文社刊、竹腰重丸著「サッカー」しかない。竹腰大先輩にはのちに御殿下グランドでお会いすることになるが、この本のとおりやってもうまくならなかった。WMフォーメーション以外の424フォーメーションをよくわからず採用、夏合宿では水飲んではいかんという根性論に支えられた高校時代をすごした。

大学に1968年に入った。日本のサッカーは進化しつつあったが、幸運にもすぐそばでそれを体験することができた。東大サッカー部の監督は1年から4年まで浅見俊雄体育科教授、国際審判員だった。筋力アップの指導、戦術指導と旺文社から一気にレベルがアップした。検見川は日本代表も合宿に使っていた。釜本選手の裸を風呂場で観て感激したり、クラマーさんが指導したその場所で練習できるのがうれしかった。世界のサッカーへ向けて八重樫、小城、山口、釜本、杉山などががんばり、1968年のメキシコ五輪で銅メダルを取ったあとだった。

入学してすぐ長期ストに入り、御殿下グランドで相変わらず練習をしていたが、翌年1月の安田講堂攻防戦をへてスト終結まで、サッカー部のなかも政治の影響が見られた。一番効いたのは入試中止であった。新入生が入ってこない。最下級生を2年やることになった。ボールの空気入れ、ライン引き、ネット張り、グランド清掃、スカウティングと、なんでもベテランになった。2年生の時は部員総数18名だったが、関東2部リーグ優勝を果たした。1部との入れ替え戦の前にOBが検見川で、すき焼きパーティをしてくれた。同期で試合にでる上妻、俵といっしょに岡野さんと鍋をつついた。岡野さんは「サッカーは足腰だけじゃなく上半身をきたえなくてはいけない。教育大出身のKは代表に選ばれたが上半身を鍛えていないからすぐクビだ。」とほんとに役に立つことをおっしゃる。それから、毎日腕立て伏せ100回を日課とするようになった。小城選手は1日千回と聞いていたのだがそこまではできなかった。

サッカーがうまくなる身近な環境は整備されたが、それがすぐに成果に結びつかないのが悲しいところだ。3年生、4年生では1学年足りないことも微妙に影響してか、優勝することはできなかった。このころようやく日本のサッカー人口は増えてひとびとに認知されるようになった。4年のとき1人に1個のボールを用意できたとき、なぜか達成感を覚えた。

団塊の世代の功罪はいろいろなところで論じられているが、世代の真中(昭和23年生まれ)である自分の目からみると、4年間の大学サッカー生活では懸命にもがいたが、前の釜本・杉山世代(クラマー世代)の後追いだったかもしれない。しかしサッカー大衆化の推進には団塊の世代が主役のはずだ、大学卒業してから、わが世代が興したサッカーチームが日本のサッカーを作ってきた。根性論と科学的サッカー論、これは私が高校、大学で学んだことだが、わが世代のもつ2面性とはいえないだろうか。

スタンドの下にパブがあり、試合前、ハーフタイム、試合後に酒を飲みながらサッカー談義をし、本当のサッカー好きがスタジアムをいっぱいにし、試合のないときは家のそばの芝生のグランドで球を蹴る、そんなニューキャッスルで経験した風景が日本に実現することを切に望んでいる。

2002年12月4日ハノイにて


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