「実はわたし8月末に脳の手術をしたんです」というと、知らなかった人は驚き、やや憐れみを持った眼で「大丈夫ですか?」と聞き返してくる。それから「これは外傷性のもので手術をすれば完治でき、脳そのものには影響ないと言われています」云々と説明する。会社には10月1日から出社して、快気祝いもしている身にとって、すでに過去のことで振り返るのもうっとうしいことながら、人生の一大事であったことを記録し、同様の事態に陥った人に何らかの有用な情報提供になると思い、小文をまとめた。(2003年11月23日)
1.ベトナムで発症、脳梗塞?
私は政府開発援助(ODA)関係のコンサルティングを職業にしている。2003年度はベトナムの仕事で2−3週間の出張を繰り返してきた。8月―9月にかけて1ヶ月の予定のハノイ現地調査はベトナム政府関係先との打ち合わせを含む重要なものであった。出発前から微熱がつづき、出発日の朝ホームドクターの診察では気管支炎になっており、「こじらせないため出張見合わせたほうが良い」と言われた。いつも「体の丈夫なコンサルタント」を強調している手前、「体調を見ながら慎重に行動するから大丈夫」と医者を説得する形で出張を決断した。このとき妻が何時になく引き留めを主張したのは何か予兆を感じていたのか。8月25日18:00成田発JAL830便でベトナム・ハノイに到着。ホテルに着きベッドに倒れこんだのは現地時間の午前零時。(日本時間午前2時)
翌朝、チームメンバー2名とともにベトナム国家銀行(SBV)訪問。協議、約1時間半。その後JBICハノイ事務所所長と懇談、20分。事務所に帰ってチームミーティングをはじめたが、自分で話したい言葉が声になって出てこない。いわゆる呂律が回らない状態だと頭の中で考えがめぐる。意識はしっかりしていて、手足の痺れもない。ただ、ふと脳梗塞?で逝去した小渕前首相が倒れる前TVニュースで、アナウンサーの質問に20秒近く声を出せないでいたことを思い出した。出発前に妻に慎重に行動することを約束していたこともあり、これはチェックしなくてはと思いはじめた。今回の出張の調査団(古臭い言い方だがODAの調査ではこの言葉が慣用化している)は団長手島のほかに古川、小森園、大場で構成されていた。これら団員のみなも心配して一刻も早く医者に行くべきだと言う。ミーティングを中断して医者に行くことにした。このように対応がとれたのは、チーム作業の良さであると後で思った。多分出張を取りやめて日本に居たら誰にも気づかれずに病気は進行していたはずだ。
2.ハノイの診療所での診察
ハノイには欧米,韓国、日本、台湾などからの外国人居住者を対象にしたシンガポール人が経営する診療所(SOSという略称)がある。この名前のため連絡を受けた東京では手島が倒れて救急車で運ばれたということになった。実際は、自分の足で行った。念のためハノイ滞在経験の長い団員の大場君が付き添ってくれた。SOSではベトナム人医師が見てくれた。症状の説明は英語で私自ら行ったがこのときは、スムーズに話ができた。日本語と英語は脳の言語中枢域が違うのかと一瞬思った。手のひらを上にして手を伸ばすとか平衡感覚、痺れの有無などのチェック、眼底、血圧、血液、尿の検査を行った。1時間ほどの検査のあと医師の所見は、「カゼ(気管支炎)の症状は見られるので、日本で処方されている抗生剤をかえてみる。脳梗塞の症状は今現在出ていないが、血圧が170−120であり、起こる可能性はある。呂律が回らないという症状を究明するには、頭部のCTスキャンで精密検査が必要。」要するに、呂律が回らないのは脳梗塞の前兆である可能性があるということ。
CTの装置はハノイではあのSARSで有名なFrench Hospitalにあるそうだが、このベトナム人医師は「SARS騒ぎでこの7月まで閉鎖されていたため、CTで何か発見されたあとの処置を考えるとあまり勧められない。日本の病院でCT検査を受けたほうがよい」と、言う。かれは、つぎのようにも助言してくれた。「一般的に脳梗塞を防ぐには次の点を注意する。1)喫煙、2)過度の飲酒、3)ストレス、4)睡眠不測、過労。」受動喫煙を入れると全部当てはまるので、これは、脳梗塞と診断されたということだなと気が重くなった。
この診察で昼ごはんの時間が過ぎてしまったが、オフィスには戻らずホテルで静養することした。ホテルから、東京で高血圧治療のため通っている虎ノ門病院の医師(内科医)に電話で相談した。彼は、たぶん一過性脳虚血発作という一種の脳梗塞ではないかといって、帰国してCTをとることを勧めてくれた。会社のほうでも産業医や銀行の医務室にも問い合わせて、ほぼ同様の意見であった。帰国を決意した。現地に来てすぐに大事なプロジェクトを放り出して帰国するには相当の罪悪感があった。次の日の朝、調査団員全員をホテルの自室に呼んで、私の居ない期間のことを打ち合わせた。この時点では、東京でCTの検査を受けたらすぐに戻れると思っていたので、ほんの数日間の不在という前提で考えていた。
3.帰国そしてCT検査
突然の日程変更であったが、幸いハノイー東京の直行便が取れ、ハノイを27日夜23:30に発ち、28日朝6:20成田に着いた。東京に居る調査団員の石井嬢が用意してくれた車で直接虎ノ門病院に向かった。8時半に病院に着くと、石井さんと逗子から妻も駆けつけてくれていた。私が1年前から高血圧治療のためお世話になっている循環器内科の百村先生が待っていて、救急扱いですぐにCTをとる処置をしてくれた。CT検査そのものは10分くらいで、現像されるまで入れて20分くらいで終わった。断層写真をみて、百村先生は、「脳には脳梗塞(出血)の顕著な症状は出ていないが、左前頭葉の硬膜下に血の塊が見られる。この血の塊が脳を圧迫して呂律がまわらなくなるような症状が出ているのではないか」と言う。脳梗塞ではない別の病気の可能性があるということだ。彼は即座に、携帯電話で脳神経内科と脳外科の医師を呼んで、彼らの所見を求めた。(携帯電話は病院内では原則禁止だが、医師・看護婦のあいだの連絡用に特別仕様の携帯電話を使っている)
CT写真を見ながら脳外科の大山先生は「この時点で外科手術をすべきである、内科的処置ではまにあわない。待っていてもしょうがないので今日やりましょう」というものであった。なんという急展開。百村先生の顔をみると、それでいくのが最善でしょうと言い、この時点で私の病気の主治医は大山脳外科医ということになった。この百村先生のとった行動は、総合病院の良さが発揮されていると思う。もし私がホームドクター(内科)のところに駆け込んで、検査して脳外科医まで行き着く過程を想像すると、下手すると手遅れになっていたかもしれない。わたしは、一緒に百村先生、大山先生の説明を聞いていた妻とも顔を見合わせて「やってもらうしかない」と覚悟を決めた。
4.局部麻酔の手術
手術についての説明を受けた。病症名「慢性硬膜下血腫」。手術式は「尖頭血腫洗浄式」ということで、頭蓋骨に10円玉大の穴を開け、硬膜の下にたまっている血の塊を洗い流すというものである。脳外科医の説明を聞き(インフォームドコンセント)、手術でかなり重大な事態もありうるとかも書いてある同意書にサインしたのが、11時ころ。同意書の一項目に他の病院の医師の意見を聞くことを勧める文言があったので、遅ればせながら、大学サッカー部のチームメイトの金丸仁藤枝市立総合病院院長に電話して同病院の脳外科の篠原医師を紹介してもらう。いわゆるセカンドオピニオンを電話で聞いた。中高年に多い外傷性のもので、手術でほとんどよくなると聞き(虎ノ門の先生もそうは言ったのだが)安心した。人生で持つべき友達は医者と弁護士とコンサルタントか。
手術が決まると、手術用の1枚の上っ張りだけに着替えさせられ、救急扱いでいろいろな検査があっという間に行われた。病院の床屋さんをベッド横に来てもらって、頭を坊主刈にした。不思議と不安な気持ちにはならなかったのは妻や石井さんが心配そうに緊張しているので強気に見せようとしていたせいか、あるいは未知の体験への興味か。脳外科手術を待つ病人はみなこのように意識は明瞭なのか、そうするとこれまで私が見舞いをする立場で見ていた「意識不明の患者」も冷静に周りをみていたのではないか。
3時に、手術室に入った。手術用ベッドに移され高光度の照明にさらされる自分をなにかディズニーランドのアトラクション(スターツアーズ)の中に居るような錯覚もふっと感じた。すこし眠くなりますよと麻酔の注射をするとほんのわずかの間寝ていたようだ。医師が「こんな厚い膜は初めてだ」と言っているのが聞こえる。局部麻酔はこうなのだ。面白い。手術中医師や看護婦の交わす会話やメスが頭皮を裂き、ドリルが頭骸骨を削る感触をずっと楽しんでいた。手術は予定よりも倍ぐらいかかり、2時間でうまく終わった。私の手術が長引いたのは、血腫を覆っている膜が通常人の数倍の厚さで血腫を取り除くのに手間取ったせいである。10円玉の予定が「20円玉になってしまいました」とは手術後の医師の説明であった。手術後24時間は絶対安静ということで、頭の穴を開けた部分からチューブをだして頭の横のプラスチック袋に血が自然にでるようにしていた。点滴で抗生物質と栄養を入れられ、尿も手術のときにパンツを脱がされ尿管にチューブを差し込まれ、尿袋をベッドサイドに付けられていた。意識の状態はまったく変わらず体が自分の自由にならない状態におかれて、南方熊楠*も経験したという幽体分離はこんなものなのかと凡人の想像をする。(*明治時代の博物学者。わたしは彼を尊敬している。著作の中に幽体分離の話がある。)
5.サッカーが原因?
血腫の膜がどうして厚いのかが医師の疑問として残り、私が発症前の1週間くらい発熱していたことも考慮して、感染症の結果がこの厚い膜だという可能性もあることから患部標本の病理分析などこのあと時間がかかった。病理分析の結果、感染症の可能性はないことが確認された。もし脳のなかの感染症であったなら生存確率は極めて低いと医師から言われていたのでほっとした。
「慢性硬膜下血腫」の原因は外傷性ということで、頭を強く打ったりしたあと2−3ヶ月して症状が出る。交通事故が一番多い。私の場合この7月、6月、5月とさかのぼっても特にそのような記憶がないが、4月にソウルにおける日韓親善サッカーの試合でプレーしたときのことが思い出される。この試合は結果的に日本が7−2で勝利するのだが、韓国ではありえないような日本優勢な試合であったため、韓国側は途中から本気になって挽回しようと、強烈なシュートをしてきたのをバックスの位置に居た私は頭で受けた。このとき倒れこんでしまったが、かなりきつかったなと試合後まで思い出すほどのものであった。私が説明すると大山医師は「4ヶ月も昔でそれは原因ではない。人によっては、頭をぶつけたことには無自覚で症状が出てしまう。特定の記憶がなくても別に良い。」と言い、とくにそれ以上の原因追求はなかった。が、退院後、会った藤枝市立病院篠原医師は、血腫の袋が長い間かかって厚い膜に成長してしまったのではないかと言ってくれた。千葉大サッカー部の出身だというベテラン医師の言葉には説得力がある。
6.脳梗塞の徹底チェック
外傷性の病気だといわれたが、帰国前に思い込んだ脳梗塞のおそれははっきりさせようと思っていた。手術の後大山医師に、CT以外の検査も徹底的にやってほしいと頼んだ。厚い血腫膜の問題もあり大山先生も同意して、MRI、MRA、脳血流検査などを受けた。入院患者の特権なのか、予約した時間にベッドからパジャマ姿で直行すれば良いので効率的であった。膨大な断層写真を専門家の眼でチェックしたが、顕著な梗塞箇所は見つからなかった。医師は私のMRIの写真を見て、ぼんやりと影が出ているところを指して「ここは加齢性のもので年取ればだれでもこうなるが、これが動脈硬化につながる」と言い、「脳梗塞の予防策はしたほうが良い、とくに高血圧については引き続き注意するように」と外科医として評論家的に付け加えた。彼は、慢性硬膜下血腫は再発率も低く、患者に喜ばれる手術だという。脳外科医がふつう扱う脳卒中の手術は、全快しなかったり、亡くなるケースも多いのだろう。私は脳梗塞の進化プロセスで言えば、最終段階に居るのではなく、中間段階に居るのだということがわかった。
退院前の医師の言葉は、「呂律が回らなくなったような症状は「慢性硬膜下血腫」によるものと考えられる。手術後1週間のCTをみると血腫はなくなっているので、このまま順調にいけば2週間くらいで、仕事に戻れるでしょう。血腫のあとが正常な状態に戻れば、これまでの生活ができます。サッカーも酒もいいです。この病気の再発率は10%くらいですが、再発するのは高齢の脳萎縮傾向のあるひとたちであり、まだ若い手島さんはあまり気にしないで生活していいです。」
7.この手術・入院で学んだこと
手術後3ヶ月を迎える現在、体調はほぼ以前の状態に戻った。頭の毛も伸びて、何も言わなければ手術の跡もわからない。11月8日に藤枝で、15日には調布でサッカーもやった。ヘディングはできないが、気持ちよく球を蹴れた。体重は手術前から4kgくらい減った。仕事は残業しないように時間管理していて、大体8時前には退社するようにしている。いつも終電という以前のやりかたではもう体は持たない。
この8月28日の手術は私に、立ち止まって考えさせてくれる時間を与えてくれた。仕事を1ヶ月以上離れて「静養」するなんて30年以上走り続けてきたコンサルタントへの特別休暇と言えるのではないか。休暇中のことはべつに報告する必要はないのだが、職業上の癖なのか、「休暇プロジェクト」が終わるとついレポートをまとめたくなってしまう。
第1のレッスンは自分の生き方の戦略を考え直しである。私は今年55歳だが、仕事もサッカーも自らプレーヤーとして動くことを当たり前のこととして続けてきた。その意欲はまだ衰えていないが、衰えてきたのは体力だということを実感し、栄養や意識的な健康維持活動なしにはこの体力の衰えが加速度的に進むであろうことを天からの啓示のように感じた。俗に「ぴんぴんころり」が理想の生き方=死に方というように、私は好きなことをばんばんやってその結果倒れてそのままというのも悪くはないと思っていた。今回疑似体験できたが、いまころりと逝くのはまずいと感じた。そして、長時間労働など無理を重ねた結果が、外傷性とはいえ「老人に多い」病気にかかってしまった大きな原因ともいえるのではないか。私の属する会社の人々にもこの「ぴんぴんころり」戦略を押し付けて、無理を強いている可能性もある。健康な状態で働く環境を作らなくてはいけないと思う。
第2のレッスンは、組織的行動あるいはチーム活動の有効性。病院で患者を見る立場から見られる立場になって、虎ノ門病院の医師と看護婦の連携の素晴らしさを実感できた。優しくて、きれいで、わがままを聞いてくれるAクラスの看護婦さんばかりで、3交替の引継ぎが完璧である。また医師と看護婦の連携、医師とMRIなどの検査技術者の連携、内科と外科の連携を、サービスを受ける立場から眺めることができた。コンサルタントとクライアント(顧客)の関係を重ねて考えた。コンサルティングファームとしてあるべき組織的行動を考えると様々な示唆を得た。
第3のレッスンは、人間の体、心は人それぞれ異なり、個別の対応が重要であること、と同時に人間1人を総合体として扱うべきだということ。自分の体のことは自分しかわからないという考えを持っていた。高血圧や痛風だと内科医から診断され、慢性硬膜下血腫の手術は脳外科で担当ということでそれはそれでそれぞれの分野の最善を尽くしてくれる。わたしの体の部分、部分はその部分の専門家に診てもらっているが普通の症例から外れた厚い血腫の膜については特別なケースとして扱われ、私の体にとっては必然の病気だという説明は出てこない。脳という体の中でも一番解明が進んでいない部分だからなのか。外科医に慢性硬膜下血腫と高血圧の関係を尋ねると言下に関係ないという。入院中、これまで抑えてきたものが一気に症状がでた。五十肩、ひどい痛風、いずれも外科医に訴えても慢性硬膜下血腫とは関係ないという。私は自分の推論をめぐらせる。素人考えである。私の体を総合的に診断できるような医学的アプローチはないのだろうか。これもまた、コンサルタントとクライアントのアナロジーを考えた。
こんなことを考えながら、手術跡の頭蓋骨がないちょっとへこんだあたりをさすってみると、血の塊が圧迫していた脳みそはどんな風に「復活」したのかと、「客観的」に見るのだが、これは「主観的」思考の結果なんだなと精神の所在にも思いは巡る。
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